saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「第14章」二番目の質問・・・(03)

二番目の質問 (03)

 

最も希少で、最も深遠な インドの ヨーガの論文の一つは「ガランド・サミタ」だ −−− 最も 根本的なもの。

その中には こう書かれてある。

「瞑想を 超えていかない限り、あなたの瞑想は役に立たない。 祈りを 超えていかない限り、あなたの祈りは聞き届けられない。 神を 完全に忘れない限り、あなたは神とひとつではない」

 

ブッダは 神について語らない。 その必要はない。

誰かが 言った

「ゴータマ・ブッダのように神を持たない人間であって、しかも神のような人間は 決して存在したことがなかった」と。

だが、彼は 神を持たないでいられた。

彼は、まったく神のようだったからだ。

 

そこで 一つ覚えておくこと、投影し続けないこと。あなたに できることが ひとつだけある。

それは、あなたのマインドを 無思考の状態にすることだ −−− というのも、思考とは 投影だからだ。

もし、あなたに思考があれば、それらは投影される。

もし 思考がなければ、その状況は ちょうど フィルムのない投影機のようなものだ。

もしフィルムが なければ、投影はできない。

あなたのマインドは 投影機だ。

そして 思考が フィルムだ。

思考が流れ、投影機が回り続けるなら、それらは投影される。

そうすれば、世界全体が 一種のスクリーンとなる。

そしてあなたは投影し続ける。

 

あなたが 誰かを愛するとき 

その人は ただのスクリーンになる。

あなたは スクリーンに 投影する。

 

誰かを憎むとき、その人は ただのスクリーンになる。

そして、あなたは そのスクリーンに 投影する。

あなたが 投影し続けているのは、あなたの思考だ。

同じ顔が 今日はきれいで、次の日には 醜くなる −−− 

同じ顔なのに −−− なぜなら、あなたの美、あなたの醜さ、あなたの 美の感覚、あなたの 醜さの感覚は、その人の 顔とはまったく関係ないからだ。

その人の顔は あなたの思考を投影する。

ただの スクリーンにすぎない。

無思考でありなさい、投影しないでいなさい ! 

 

私が強調するのは、あなた方は 無思考の、覚醒という地点に至らねばならない −−− どんな投影もしないように、 ということだ

そうしたら、自分が作り出した世界ではなく 

あるがままの世界を見る。

もしあるがままの世界を 見ることができれば、神に至る。

いいかね、その違いが感じられるかね ? 

 

世界は そこにある。

その上に、あなたは 神を投影する。

それは 一つの思考なのだ。

 

あなたは 知らない −−− そういうことを 聞いたことはあるし、読んだことはある。

誰かがあなたに、そういうことを言ったことはある。

あなたは そうであって欲しいと 願う −−− 

が、 あなたは 知らない。

あなたは 世界が 神聖であることを 知らない。

世界を 世界として 知っているだけだ。

 

「世界は神聖だ」という概念は、一つの思考だ。

さあ、あなたは その概念を 投影できる。

そして、それを繰り返す。

その考えを、絶えずマインドの中に 留めておく。

その考えを、あなたと世界の間に 常にあらしめる。

すると、あなたのマインドは その思考を投影し始める。

そして ある日、世界は 神聖に 見え始める。

 

人間 ?  それは一種の投影だ。

あなたは 人間を 神聖なもの と考えていた。

そして今や、それを感じるようになる。

真正な悟りは、そういうものとは まったく違う。

あなたは 世界が何であるのか知らない。

 

 

二番目の質問 (03)終わり(04)へ 続く