saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章 「〈光明〉の味 」 (11)

(…そして その場所から去るとき、それは そこに執着しない
風は、来ては 去って行く

それは こう言わない
「いまや 私は 到着した
私は たいへんな困難を経て やって来た
私は去らないぞ
私は もうここにとどまるぞ
さまざまな 海や山を越えて、こんなにも長い旅を経て やっとここへ来た
私は もう去らない、ここにとどまるぞ
さもなければ 私がここまで来た目的は いったい何なのだ ? 」

いいや、風は来て、風は 去って行く
仏陀は その 風のようだ
かく来たり、かく去る
無執着だーーー

彼の去来は 神秘的だ
彼の去来は 予測不可能だ、説明不可能だ

ただ動機だけが 説明されうるからだ、原因だけが 説明されうるからだ

〈光明〉という その究極の境地
その 純粋性、その完全性においては、物事は 神秘的だ
物事は ただ起こる
人はけっして「なぜ」を 知らない
「なぜ」と 問う必要は 何もない

あらゆるものが 美しく、祝福に 満ちている

来ることは 祝福、去ることは 祝福だ

肉体のなかに いることは 祝福だ
肉体から 去ることも 祝福だ

存在を もつことは 祝福だ
非在のなかへ 消え去ることも 祝福だ

すべてが 祝福だ


〈光明〉の味わいは 祝福の味わいだ
何が起ころうと、たいした ちがいはない
そんなことは どうでもいい
そこには 選択は いっさい ない
動機は いっさい ない
欲望は いっさい ない
物事は ひとりでに 起こる
それは きわめて 神秘的だ

だから ブッダを説明することはできない

ブッダを 体験することは できる

それゆえに「弟子であること」が 必要なのだ


ときどき 人々が 私に訊ねに来る
「サニヤシンに なることの必要性は何でしょう ? 」
その必要性とは、サニヤシンになる以外には あなたは私を味わえない ということだ
その必要性とは、サニヤシンになる以外には あなたはけっして 私に近づけない
あなたは、私との深い共感によって可能な
あの オーガズミックな体験を けっして味わえない ということだ


サニヤスとは 共感だ
全面的に 私といる ということ、完全に 私と共にいる ということだ
あらゆる「防御」を 落とすこと
私の〈空〉が あなたのなかに溢れ出すほどに 近づくこと
もう 境界線が なくなり、私たちが重なり合うほどに 近づくということだ

その体験のためには、サニヤスが必要だ

ブッダは そのようにしてのみ 知ることができる

ほかに 道は ない


そして理解されるべき もうひとつのことーーー

仏陀は 言う
「私は 仏眼を通して見た
私は 仏智を 通して知った」
この 仏眼、仏智とは 何か ?

ヨーガで「第三の眼」として 知られているもの
ヒンドゥー教徒たちが シヴァ・ネトラ(シヴァ神の眼) として 知っているもの
それが 仏典で「仏眼」として 知られているものだ


あなたは 二つの眼を持つ
それらは 二元性を 象徴している
あなたは 分裂している

あなたが 単一のヴィジョンを 達成し
あなたのなかに 分裂不可能な 第三のヴィジョンが 生じるとき
そのときには、あなたは〈存在〉の 一体性を見はじめる

それは、鏡を壊したら その破片全部が 沢山のあなたの顔を 映し出すようなものだ

あなたの顔は ひとつしかないのに、それら鏡の破片は 千もの顔を 映し出す
その鏡を 再び ひとつに合わせたら、再び ひとつの顔が 現われる

現実は ひとつだ
だが 私たちの眼は 二つある



(11)終わり・・・(12)へ 続く