saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「死の アート」第三章 綱渡り (02)

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(…だから、死は 生に反しない。
死は生に含まれる ーーここが 一番大事なところ。
もし、正しく生きたかったら、正しい死に方を学ばなくてはならない )

生と死のバランスをとり、ちょうど その真ん中にいなければならない。
真ん中にいるということは、静止しているということではない。
あることを達成すれば それで終わり、すべきことは何もない、というわけにはいかない。
それは馬鹿げている。
人は、永遠のバランスには 達し得ない、何度も 何度もバランスを取り戻さねばならない。

このことは、理解が非常に難しい。
なぜなら、私たちのマインドが、現実の生に相応しくない観念の中で 養われてきたからだ。
一度 瞑想に達すれば それ以上必要ない、瞑想の中に留まる、と あなたは考える。
あなたは 間違っている。
瞑想は固定したものではない、それはバランスだ。
何度も 何度も瞑想に達しなければならない。
次第に、瞑想に達するのは容易になっていくが、手中の物のように、ずっと残るわけではない。
一瞬一瞬、求めなければならない。
そうしてはじめて、瞑想は あなたのものになる。
あなたは休めない、「私は瞑想した。 もう何もする必要がないとわかった。
私は 休める」とは 言えない。
生は 休息を信奉しない。
それは、完全から さらなる完全へと絶えず動いていく。

いいかね、完全から さらなる完全と言ったが、生は 決して不完全ではなく、つねに完全なのだ。
だが、つねに もっと完全に なり得る。
論理的には、こういう言い方は 不合理なのだが。



おもしろい話を読んでいた・・・

ある男が、偽札使用の容疑で訴えられた。
尋問の際、被告は、偽札だとは 知らなかったと抗弁した。
だが、証拠を挙げられて 白状した。
「使う羽目になったのは、偽札を盗んだからです。 しかし、偽札だと知っていたら、盗んだでしょうか」。

熟慮の末、判事は被告の言い分を 認めた。
そこで偽札使用の訴えを取り下げ、代わりに窃盗の罪で 新たに起訴した。

「確かに、盗みました」と 被告は素直に認めた。
「しかし、偽札には法律で言うところの価値はありません。 とすれば、無価値なものを盗んで、それが罪になるのでしょうか」。

誰ひとり、被告の論理に瑕疵(かし)を 見つけることはできなかった。
それで、男は 無罪放免となった。

だが、生において、論理は役に立たない。
それほど簡単に 無罪放免とはいかない。

法律の罠からなら、合法的、論理的に抜け出せる。
その罠は、アリストテレスの論理で できているからだ。
抜け出すのに、同じ論理が使える。
だが 生の場合、論理や神学や 哲学によって 抜け出すことはできない。
理論を造るのが 非常にうまいからといって、抜け出すことはできない。

実際に体験しなくては、生は 抜け出せない、生は 超えられない。


宗教的な人には、ニ種類ある。
まず 子供っぽいもの ーーその種の人間は、父親的人物を捜している。
未熟で 自分を信頼できないため、どこかに神を 求めなくてはならない。
神は いるかもしれないし、いないかもしれない。
だが、それは問題ではない。
とにかく 神が必要なのだ。
神が そこにいないとしても、未熟な精神は 神を造りだすだろう。
未熟な精神は、心理的に神を 必要とする。
神の存在いかんを問う 真理の問題ではなく、心理的 必要性の問題だ。

聖書には、神は己の姿に似せて 人間を造った と書いてある。
だが、その反対の方が よっぽど正しい。
人間が 己の姿に似せて 神を造ったのだ。
人は 自分の必要に応じて、どんな神でも造ってしまう。
そのため、それぞれの時代で 神の観念が違ってくる。
国ごとに 必要とするものが異なるから、国によって考えが違ってくる。
実際、個々人の抱いている神の観念が異なるのも、人によって必要性が異なるからであり、それらが満たされなくてはならないからだ。

第一のタイプの宗教的な人 ーーいわゆる宗教的な人ーー というのは、ただ単に 未熟な人のことだ。
その宗教は、宗教ではなく心理学でしかない。
そして、宗教が心理学であるとき、それは 単なる夢、望み、欲望でしかない。
真実とは何の関わりもない。


こんな話を読んでいた。
幼い少年が、お祈りをしていた。
そして 最後に、こう締めくくった、「神様、ママを お護りください。パパを お護りください。
赤ちゃんの妹も、エマ叔母さんも、ジョン叔父さんも、おじいちゃんも おばあちゃんも。
それから、神様、自分のことも大事にしてくださいね。
大事にしてもらわないと、僕達全員、だめになっちゃいますから」。


これが 大多数の人の神、宗教的と言われる人の 九十パーセントは 未熟だ。
彼らが信じるのは、信仰がなくては 生きていけないから、信仰が 一種の安心を与えてくれるから、信仰すれば 護られているような気持ちになれるからだ。
それは 彼 ら の 夢だ。
だが 役に立つ。
生の 暗夜、存在の深刻な闘いの中では、そうした信仰がなければ、一人取り残されたような気持ちになる。
だがそれは、実在する神ではなく 彼 ら の 神だ。
未熟さが なくなれば、その神も 消える。

多くの人々に、それが起こっている。
今世紀になって、多くの人々が 宗教的でなくなった。
神が存在しないことを知ったのではなく、この時代が 人を少しばかり大人にしたに 過ぎないのだが。
人間は 齢を重ね、少し大人になった。
それで、少年時代の、未熟な精神の神は 不都合になった。


それが、フリードリッヒ・ニーチェの、「神は死んだ」という宣言の意味だ。
死んだのは 神ではなく、未熟な精神の神だ。
本当のところ、神は死んだと言うのは正しくない。
なぜなら、神が生きていたことなどないからだ。
「神は もう時代遅れだ」と 言うのが、唯一正しい表現だろう。
人間は もっと自分を信頼していい。
信仰は いらない、信仰の松葉杖は要らない。



(02)終わり、(03)へ 続く