saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,


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Pp 310ー320

第11章「二つの道−究極の現実」

 

二番目の質問 (01)

 OSHO、「生は、生と死、 善と悪、 平和と暴力、 やさしさと残酷さ、 美しさと醜さという 二律背反の内に存在する」と あなたは おっしゃいました。

 そして、生の中に 相反するものがあるのは避けられないことであり、それは当然なのでしょう。

それなら、私たちが 宗教で手に入れようとしているものは 何なのですか ? 

また、精神の変容とは、何を意味しているのでしょうか ? 

 聖人たち、 予言者たちは 精神的な社会、文化を築こうとしてきました。

それらは、彼らが 物事の 自然なありさまを変えたいと欲したという意味ではないでしょうか ? 

そして、 もし私たちが 健全で、 精神的な社会を築くことに成功した場合、残酷さや暴力、醜さなどの 反対のものは、どういうことになるのでしょうか ? 

 

 

 それは、最も重要な問題の 一つだ。

また、その問題について 多くの混乱がある。

 

そこで まずはじめに、宗教は 倫理ではなく、道徳でもないことを、はっきり認識することだ。

道徳とは、 悪いもの、 悪、 不道徳なこと −−− 罪に対して 逆らう努力を 続けることだ。

ゆえに、道徳は 悪に逆らう葛藤であり、 闘いだ。

道徳は、不道徳が存在しない 道徳的世界を 作り出そうとしている。

だが、 それは 不可能だ ! 

 

精々、世界を変えることが できるだけで、社会のバランスは 同じままだ。

それは、自然の最も深い 法則の一つだ −−− 

それは 二律背反として 存在する。

一つを 壊せば、その反対のものも また壊される。

 

この世界では、何ひとつ 悪いものも なければ、良いものも ない。

罪人も いなければ  聖人も いない。

聖人は 罪人の 反対するものとして 存在する。

彼らは 相互依存の関係だ。

道徳的な努力で、善のみが存在する世界を 作り出すことはない。 それは 叶えられない望みだ。

それは 叶わずじまいだ。

その望みは 叶えられない。

というのも、 根本的な法則を 否定しているのだから。

 

今や 物理学者たちは

「物質は、非物質であって初めて存在する。

物質は、非物質に並行するかたちで、存在する」と 言う。

自然とは バランスだ

そのバランスを 否定は できない。

 

もし 一方の極だけを強調し続けたら、実際には 二つのことが 起こる。

一つは その一方の極を強める −−− そうすれば、もう一方の極も また助長される −−− あるいは、その両方を 壊してしまうかの どちらかだ。

そうすれば、あなたが 助長しようとしていたものも また、 壊されてしまう。

 

生は バランスだ。

ゆえに、道徳とは 実りのない努力だ。

私は「道徳的であっては いけない」と 言うのではない。

そう思うのなら、あなたは またしてもバランスを崩している。

だから、 何であれ、ありのままでいることだ。

 

宗教というのは、まったく 別の領域だ。

宗教は、悪い世界に反して、良い世界を 作り出そうとするのではない。

宗教は、バランスの取れた世界を創り出そうとする −−− 何かに 反するわけではない。

善と悪が バランスをとると、それらは相殺し合う。

 

 

(01)終わり(02)ヘ 続く