saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第18章「意識の光」二番目の質問 (01)

二番目の質問 (01)

 

質問・・・・・・

 『 OSHO、昨夜、あなたは クリシュナのビジョンを見て、自分が宗教的に高い境地にある と 思っている人のケースについて言及なさいました。

でも、 彼は まだ最初の一歩も踏み出していないと、あなたは おっしゃいました。

とすると、 自分がどのくらい先に進んでいるか、どうしたら わかるのですか ? 

 

それは、その人の見るビジョンとか、霊性の開発を示していると考えられる 別のサイキックな現象によって わかるのでしょうか ? 

もし そうではないとすれば、人が宗教的に高い境地にあることを示すものとは どういうものでしょうか ? 』

 

 

 ビジョンを見る ということは あり得る。

そして、

それらが 宗教的に高い境地を 示していることも あり得る。

だが、 それには 一つ条件がある。

 

それは、あなたが 宗教的に高い境地に あればあるほど、自分が 高い境地にある と 思わなくなる ということ。

あなたが 悟った存在に向かって 進めば進むほど 

「私は悟っている」と 思わなくなる ということだ。

霊性が 高くなるということは、とても謙虚な進歩だ。

 

そこで 一つ。

あなたが見るビジョンは、あなたが 宗教的に高い境地にあることを示すもので あり得る。

が、それは あなたが前より もっと謙虚である時 のみだ。

 

もしあなたが、自分は 宗教的に高い境地にある と 思い始めれば、 それは 別のことを示している。

そう思うとすれば、そのビジョンは 霊的なものではなく、ただ 単にマインドの 投影にすぎない ということだ。

だから それが 基準となる。

 

もし あなたが 本当にビジョンの中で クリシュナを見たとして、 それが 真正なものなら、あなたは もう存在しない。

もし 本当に それが一つの悟りであるなら、あなたは 消え去る。

あなたは こう言うだろう。

「クリシュナは いるが、私は いない」と。

 

だが、もしあなたが そのビジョンを見ることで エゴを強めるなら、あなたという存在は 消え去らない。

その反対に、あなた という存在が強められ、

「私は宗教の達人だ。宗教的に高い境地にある人間だ −−− 私は 普通の人間ではない」と 言うなら、そのビジョンは 真正なものではなく、エゴの 投影に すぎない。

 

エゴは、それ自身の投影によって 強まる。

さもなければ エゴは崩れてしまう。

 

 

(01)終わり(02)ヘ 続く