saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 超越するものと一体になる (08)

動機や願いが含まれていれば、祈りは醜い。
だが 私たちは とても狡猾で、様々な手段を見つけだす。


ちょっとした話をしよう。

牧師と司祭と ラビが、それぞれ集めた金のうち、個人に流用する分と 教会に渡す分を、どうやって決めたらいいか議論していた。

「床に線を引こう。
お金を 全部放り投げ、右に落ちた方を 私の分に、左に落ちた方を 主の分にしよう」と 牧師が言った。

司祭が うなずき、「私のやり方も、円を使うだけで 基本的には同じだ。
中に落ちたのが 私ので、外に落ちたのが 主のだ」

ラビは にやりとし、「私も 同じことをしよう。
お金を全部放り投げ、神が掴んだ分だけ 神のものということにする」と 言った。


私たちは、神を もてあそぶことさえし続ける。
実のところ、神は 私たちの発明、実に小賢しい発明だ。
やはり それもどこかに存在するような神で、あなたは それに祈ったり、物を ねだったり、安心や慰めを見出したりする。
安心のために 考案されたあの世の銀行預金のようなものだが、客体であることに変わりはない。

神は 客体ではない。
イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が、こぞって神の偶像を作らないようにしてきた理由はそこにある。
そのことは とても象徴的で意味がある。

偶像を作れば、神は 客体になるからだ。
偶像のないままにしておきなさい。
ところが、偶像がなかったのは 神学の領域だけだった。
神の偶像を作っても作らなくても違いはない。
マインドが客体の次元に動いていっただけで、マインドは 神を も の として扱う。
イスラム教徒が、祈ろうとして メッカの方を向くときでさえ、神は偶像となる。
石に キスをしに メッカへ行くときでさえ、神は偶像となる。
メッカの ブラックストーンは、今までで 一番キスをされた石だが、実を言うと、石は不潔で、キスをするのは 極めて危険なのだ。


神の偶像を作ろうが 作るまいが、マインドが客体的であれば、神についての考えも 客体的になる。
神を思うとき、あなたは 高いところ、天空の 最上部にある天国のことを考え始める。
そこに神はいる、 と。
真に宗教的な人に、神が どこにいるのか尋ねたら、その人は 目を閉じ 内へ向かうだろう。
神は そこに、内にいる。
あなたの実在は 神聖だ。
神が あなたに内在していなければ、あなたの実存に 内在していなければ、偶像を持ち運んでいるということだ。
石や木の偶像を 作る作らないが 重要なのではない。
思考、想像力、観念で 偶像が作れる。
それもまた偶像だ。
より細微な物質によるものだが、偶像であることに変わりはない。

次元が変わらない限り、人は 同じだ。
無神論者である人が、「私は神を見ることができない。 だから神は いない。
神を見せてくれ、そうすれば信じる」と言う。
そしていつの日か、彼は ある体験をする。
ヴィジョンを、神がそこに立っている夢を見る。
それから、信じだす。


ギータの中で、クリシュナの弟子 アルジュナが 何度も疑問をぶつける。
「あなたは神のことを語り続けますが、見ない限り 私には信じられません」と。
さてアルジュナは 何を言っているのだろうか。
「神を 物質化してください。 そうしたら信じましょう」と 言っているのだ。
クリシュナは 彼の要望を受け入れた。

私は そこのところが気にいらない。

その要望を受け入れるのは、物的次元で 神を知り得ることを意味するからだ。
その物語では、クリシュナが その実体、その巨大な姿を現したと言われている。
彼は 神の姿になった。
アルジュナは 震えおののき、「やめてください ! 充分です ! わかりました ! 」と言った。
アルジュナは、クリシュナが広がり 宇宙全体になるのを見た。
クリシュナの中で 星が動いていた、太陽や月や 惑星が昇っていた。
世界の 始まりと終わり、あらゆる生と死が そこにあった。
それは 度が過ぎていた。
アルジュナは 耐えられなくなり、「やめてください」と言った。
それから彼は 信じるようになった。

しかし この信念では、客体の立場を変えることはできない。
物的次元を 変えることはできない。
見ることができなかったから 信じなかった。
今度は 見た、だから信じる。
だが、神は客体の世界に留まり、 も の で あり続ける。
クリシュナが こんなことをするとは、残念だ。
すべきではなかった。

愚かな弟子に対する 妥協だ。
弟子は その次元を 変える必要がある。
もっと 主体的にならなければならない。
けれども私たちは、形を変えながら 同じものに留まる。



(08)終わり・・・(09)へ 続く