saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 超越するものと一体になる (09)

愚かな弟子に対する 妥協だ。
弟子は その次元を 変える必要がある。
もっと 主体的にならなければならない。
けれども私たちは、形を変えながら 同じものに留まる。


聞いた話だが ーー。

葬式が終わった。
男やもめとなったばかりの ゴールドバークは、すすり泣きながら 亡き妻の妹の後について行き、待っていたリムジンに乗り込んだ。

その大きな車が 斎場の門をくぐるとき、妹は ゴールドバークの手が、自分の太ももを ゆっくりだが 激しくまさぐっているので ぞっとした。
いまだ死別の悲しみに打ちひしがれている彼女は 悲鳴を上げた。
「ゴールドバーク、 あなたって変態、畜生だわ !
墓場の お姉さん、まだ冷たくなっていないのよ。
一体 どうしたっていうの ! 」

悲しみに声を震わせながら、ゴールドバークは答えた、「悲しくて、何をしているんだか わからないんだ」。


人々は 悲しいときでも、他の状態のときでも 変わりがない。
次元を変えない。

だから、理解しておくべき 最も重要なことは、客体から主体に変わる必要があるということだ。
目を閉じて、あなたの 感情や思考を もっと見つめなさい。
内面の世界、絶対的に固有な あなただけの世界を 深く覗きこみなさい。

客体は共通のものだが、主体は 個人的なものだ。
あなたの夢に 人を招待することはできない。
不可能だ。
「今夜、僕の夢に来てくれないか」とは 言えない。
夢は 絶対的に あなたのものだからだ。
あなたの恋人でさえ 招待できない、同じベッドで、すぐ隣で、手を取り合って寝ているとしても。
あなたは あなたの夢を見る、彼女は 彼女の夢を見る。

夢は 個人的なもの、主体は 個人的なもの。
客体は 共通のもの、俗世界のもの。
大勢の人が 一つの物体を見るのは 可能だが、一つの思考を見るのは 不可能だ。
一人しか、その思考の持ち主しか見られない。

もっと、意識を個人的なものの方へ寄せなさい。
詩人は 個人的な生を送る。
政治家は 公的な生を送る。
マハトマ・ガンジーは、個人としての生がない と言っていた。
その言葉が意味するのは、非常に貧しい生を送ったに違いない ということだ。
個人的な生は 豊かだ。
政治家の生は、テレビや新聞、街や人込みの中で、みんなに見られる 生だ。
政治家には 公の顔しかない。
家に帰ったら、政治家は 誰でもない ーー すべての顔を失う。


あなたは、自分の顔を 見つけねばならない。
公よりも 個人に重点を置き、個人的なものの愛し方を 学び始めるべきだ。
個人は 神への扉なのだから。
公は科学の扉であって、宗教や神への扉ではない。
数学や計算への扉であって、歓喜や愛への扉ではない。

個人性の強いもの、音楽、詩、園芸を 楽しみなさい。

だからこそ 禅は、書道、絵画、詩、園芸など、完全に個人的なもの、内に 生き、それから外に向かうようなもの、最奥の実存の核に うねりが生じ、外へ広がっていくものを 強調する。

公の生は、まったく転倒している。
外部で 事が生じ、あなたの中に消えていく。
公の生においては、事の起こり、源が 常に 外にある。
実存の中心が、内にではなく 常に外にある。
生が外部に依存しているため、政治家は いつも外部を恐れている。
人々が 票を入れてくれなければ、政治家は 何でもない人になる。

ところが、画家や詩人は 外部に少しも影響されない。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの絵は 誰一人買わなかった。
生涯、彼の絵は 一枚も売れなかった。
だが、それは大したことではなかった。
ゴッホは 楽しんだ。
売れれば売れるで、それも良し。
売れなければ売れないで、それも良し。
本当の褒賞は、売れるとか 認められることにではなく、ゴッホの創作活動の中にあった。
まさに その創作において、画家はゴールに達する。
創作しているとき、画家は 神聖になる。
創造しているとき、常にあなたは 神になる。

神が この世を創造したと、何度も聞いたことがあるだろう。
もうひとつ 付け加えたい。
あなたが 何かを 創造するたびに、あなた自身が 小さな神になる、と。
神が創造主なら、創造的であることが 神のところへ行く 唯一の道だ。
そのとき、あなたは 参加者になる、もう見物人ではない。

認められる、認められないに関わらず、ヴァン・ゴッホは、内なる世界で途方もなく美しい生を生きた。
とても色鮮やかな生を。
本当の 褒賞は、絵が売れ、世界中の批評家から評価されることではない。
そんなのは 最低の褒賞だ。
画家が 絵を描いているとき、絵の中に消えゆくとき、踊り手が 踊りの中に溶けゆくとき、歌い手が自分を忘れ 歌が躍動するとき、そのときが 本当の褒賞なのだ。
そこにこそ、本物がある、そこにこそ、本物の達成がある。

外部に いれば、他人に依存する。
公の生、政治的な生を送れば、他人に依存する。
あなたは 奴隷だ。

個人的な生を送れば、自分の主人になる。

そのことを強調させてほしい、強く言わせてほしい。
というのは、私の弟子(サニヤシン)たち全員に、それぞれの分野で 創造的になったほしいからだ。
私にとって、創造性は とてつもなく重要だ。
創造的でない人は、少しも宗教的ではない。
皆が ヴァン・ゴッホになれ と 言っているのではない、できない相談だ。
皆が レオナルド・ダ・ヴィンチや ベートーベンや モーツァルトになれとか、ワーグナーピカソや ラビンドラナートになれ、とか 言っているのではない。
いや、そんなことは言っていない。

世界的に有名な画家、詩人になれとか、ノーベル賞を取れとか 言っているのではない。
なぜなら、そういう考えを持てば、再び政治の中に落ちてしまうからだ。
ノーベル賞は 外から来る。
それは 最低の賞であって、本当の賞ではない。
本物は 内から来る。
それに、皆がなれるとも言っていない、全員 ピカソに なれるわけがない。
また、なる必要もない。
ピカソが たくさん居すぎたら、とても単調な世界になるだろう。
ピカソが 一人しか居ないのは良いことだし、ピカソが 繰り返しこの世に生まれないのも良いことだ。
そうでないと 退屈な世界になってしまう。

しかし、皆がそれぞれ、独自の道で 創造者となるのは可能だ。

人に知られるようになるかどうかが重要なのではない。

まったくどうでもいいことだ。

愛から何かをするのでもいい。

そのときそれは、創造的なものになる。



(09)終わり・・・(10)へ 続く