saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第九章 超越するものと一体になる (10)

…皆がそれぞれ、独自の道で 創造者となるのは可能だ。
人に知られるようになるかどうかが重要なのではない。
まったくどうでもいいことだ。
愛から何かをするのでもいい。
そのときそれは、創造的なものになる。


私があなたたちに 講話をしているとき、アスタは 私の浴室と部屋の掃除をしている。
私は アスタに、この仕事をやめて講話を聞きに来たくないかと尋ねた。
彼女は、「和尚、あなたの浴室を掃除するだけで充分ですよ」と 言った。
それは創造的な仕事だ。
彼女は 愛から その仕事を選んだ。
そしてもちろん、彼女は 何も取り逃がしてはいない。
私の話を 聞くかどうかが問題ではない。
浴室の掃除が大好きなら、私を 愛しているなら、それは 祈りだ。
あなたたちは ここにいられる、だが私の話を聞くとは限らない。
アスタは ここにいない、だが私の話を聞いた、私のことを理解した。
今や、その仕事自体が 礼拝となっている。
そのとき、それは創造的なものになる。

私の弟子(サニヤシン)たち全員に、何度も 念を押しておきたい。
創造的であれ、 と。
過去において、宗教的な人々の大多数が、非創造的であることが明らかになった。
それは災い、呪いだった。
聖人は何もせず 座っているだけだった。
それは 本当の宗教ではない。
本当の宗教が 人々の生の中で爆発するとき、偉大な創造性も爆発する。


仏陀がここにいたとき、偉大な創造性が爆発した。
アジャンタと エローラに、その証拠が見られる。
タントラが 生きた宗教であったとき、偉大な創造性が爆発した。
プーリ、コナラク、カジュラホ に行けばわかる。
禅のマスターたちが 生きていたとき、彼らは些細な事柄を元に、数多くの創造的で まったく新しい次元を切り拓いた。

問題は・・・あなたが 創造的でない とすれば、それはあなたが宗教を勤めとし、自分に特定の型を押しつけ、その型にはまり 凍りついているからに他ならない。
宗教的な人には 流れがある、川のように流れている。
捜し、探求し、常に 未知のものを 探し求めている。
常に、既知のものを捨て、未知のものに入っていく。
常に、既知のものではなく 未知のものを選び、未知のもののために既知のものを犠牲にする。
そして 常に用意ができている。
宗教的な人は 放浪者、さすらい人だ。
最奥の世界を さすらい続ける。
あちらから こちらへと 動き続ける。
実存にある すべての空間を知りたいと思っている。


もっと創造的になるがいい。
人が あなたの踊りを 気に入るかどうか、気にしてはいけない。
そんなことは問題じゃない。
踊りに溶け込めれば、あなたは ダンサーだ。

詩を書くがいい。
人に見せる必要はない。
楽しめればいいのだ。
書いて 焼きなさい。

フルートや ギターや シタールを演奏するがいい。
ここで タブラを叩いているボーディーを見たことがあるはずだ。
何と瞑想的に叩くことか !
それが彼の 瞑想だ。
彼は 成長している、タブラの中に入り、溶け込んでいる。

主体は、あらゆる芸術と創造の王国だ。
この二つは、実存の 通常の領域だ。

第三の 真に宗教的なものは、超越だ。
一番目は 客体、客体は 科学の世界だ。
二番目は 主体、主体は 芸術の世界だ。
そして三番目は 超越、それは その二つを超えている、客体的でも主体的でも、内でも外でもない。
それには その二つが含まれている、包摂されている。
だが、 両者よりも高くて大きい。
両者を 超越している。
主体は 客体よりも 超越には近い。
だが、 覚えておきなさい。
主体的であるだけでは 宗教的にならない。
あなたは 宗教の方へ 一歩、きわめて重要な 一歩を踏み出した。
しかし、宗教的であるだけでは 宗教的にならない。
宗教的でない詩人も見受けられる、宗教的でない画家も 見受けられる。

宗教は、芸術以上の、科学以上のものだ。


この 第三のものとは何だろうか。
まず、思考を覗き始めなさい。
公の世界を捨て 個人に向かう。
夢、思考、願望、感情、気分、そして 変化し続ける内部の状況を 絶えず覗いている。
これが 主体だ。

それから最後の、究極の跳躍だ。
思考を覗き、しばらくしたら、観察者、目撃者、思考を見ている人物を 覗く。

まず 物から思考へ、次に 思考から思考者へ。
物は 科学の世界、思考は 芸術の世界、そして思考者は 宗教の世界だ。
ひたすら 内へ向かいなさい。

第一は、あなたを取り巻いている物、第二は 思考。
第三は 中心、まさに あなたの実存は 意識に他ならない。
目撃に他ならない。

物を捨て、思考の中に入る。
そして いつかは、思考をも捨てなければならない。
するとあなたは、あなたそのものの 中に ひとり残される、完全に ひとりきりになる。

聖性は その孤独の中にある、その孤独の中に 解放が、解脱がある。
その孤独の中に 涅槃がある、その孤独の中で、はじめて あなたは 真に存在する。


(10)終わり・・・(11)へ 続く