saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(12)

(12)

( 蓄積された思考や 積み重ねられた記憶が、エゴの感覚を生み出す −−− そして、それが あなただ )

 

次のことを 実験してみなさい。

自分を 自分の過去全体から 切り離す −−− 記憶を消す ということだ。

あなたは 自分の親が 誰だか知らない。

あなたは 自分がどこの国の人間なのか、どの宗教に属する人間なのか、どの民族に属する人間なのか知らない。

あなたは自分が どこで教育を受けたのか 

教育を受けたのか どうかも わからない。

ただ、過去全部を 切り離す −−− 

そして、自分が 誰なのかを思い出す。

 

あなたは 自分が誰なのかを思い出せない。

 

明らかに、あなたという人間は いる。

あなたは いる、が、 あなたは 誰だろう ? 

その瞬間、あなたは「私」というものを 感じられない。

というように、エゴとは ただ蓄積された過去だ。

エゴは あなたの思考だ −−− 凝縮され、結晶化された −−− 

だから睦州は「もしお前が わしを見ていたのなら、わし というものは いなかったはずだ。

お茶を飲む行為はあった。 が、飲む人は存在しなかった。

歩く という行為はあった。 が、歩く人は存在しなかった。

行為は そこにあったが、行為する人間は存在しなかった」と 言ったのだ。

 

観ることにおいては、私 という感覚は 存在しない。

考える ということにおいては、私 という感覚が ある。

思想家と言われる人達が、深く エゴに根差しているとすれば、それはただの偶然ではない。

芸術家、思想家、哲学者、文学者。

もし 彼らが とてもエゴイスティックであるとするなら、それは ただの偶然ではない。

自分の中に 思考が あればあるほど、その人は より大きなエゴを持っている。

だが 観ることにおいては、エゴは 存在しない。

だがその状態は、あなたが 言葉を超越して はじめてやってくる。

言葉は 一種の障害だ。

言葉は 人と会話するのには必要だ。

だが、自分自身と会話するのに言葉は 必要ない。

言葉は 役に立つ道具だ −−− 最も 役に立つ道具だ。

人間が社会を、世界を作り出せたのは 言葉のおかげだ −−− だが 言葉のせいで、自分自身を 忘れ去ってしまった。

言葉は 我々の 世界だ。

 

もし 一瞬、人間が 言葉を忘れてしまったら、何が 残るだろう ? 

文化、社会、ヒンドゥー教キリスト教共産主義 −−− 一体何が残るだろう ? 

何も 残らない。

 

もし言葉だけが 存在から取り上げられたら、全人類は その文化、文明、科学、宗教、哲学とともに 消え去る。

 

言葉は 人とのコミュニケーションだ。

それは ただのコミュニケーションだ。

それは 役に立つ、が、 危険だ −−− 何か 道具が役に立つ時は 常に、同じ割合で 危険を孕んでいる。

 

 

(12)終わり(13)へ 続く