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( ただ 食べること −−− そうすれば、食べることが瞑想になる −−− なぜなら、もし言葉なしでいれば、あなたは 観照者になるからだ )
もし頭の中に 言葉があれば、あなたは 思想家になる。
もしあなたが 言葉なしでいれば、否応なく −−− 他にどうにもなりようがない −−− 自動的に、あなたは 観照者であるだろう。
だから、言葉を使わないで 何かをしようとしてごらん。
歩くこと、食べること、風呂に入ること、あるいは ただ静かに 座っていること。
そのとき、ただ座っている −−−
ただ「座っている」になりなさい !
考えるのではない。
そうすれば、ただ座っていることでさえ、瞑想になる。
ただ 歩くことが 瞑想になる。
誰かが 睦州に「瞑想のために、何か技法を下さい」と 頼んだ。
すると睦州は
「技法は与えられるが、お前さんには瞑想できまい −−− お前さんは物事を言葉にする心で、技法を行なうだろうから」と言った。
あなたの指は 数珠を繰ることができる。
そして、延々と考え続けることが できる。
もし あなたの指が、考えずに数珠を繰ることが できれば、それは 一つの瞑想になる。
だが それなら、本当には技法は 必要ない。
生全体が 技法になる。
そして睦州は言った、「もしお前さんが わしと一緒にいて わしを見るなら、その方がいいだろう。
技法を欲するな。ただ わしを見る −−− そうすれば わかる」と。
哀れなその男は 七日間、睦州を見続けた。
そして彼は、前以上に 頭が混乱し始めた。
七日間が過ぎて、彼は こう言った。
「私が ここに来た時は、今ほど混乱してはいませんでした。
今、私は 前よりも混乱しています。 私はこの七日間、絶えずあなたを見続けてきました −−− でも、何を見るというのですか ?」
すると、睦州は こう言った。
「それは、お前さんが 見ていなかったということだ。
わしが歩くのを 見ていたか ? −−− わしは ただ歩く。
お前が 朝、わしのために お茶を持って来るとき、わしが お茶を飲むのを 見ていたか ? −−− わしは ただお茶を 手に取り、それを飲む。ただ飲む。
そこに睦州は まったく存在しない。
ただ 飲む。 睦州は いない。
ただ お茶を飲む という行為だけがある。
それを 見ていたかね ?
もしお前が それを見ていれば、睦州という人間は もう存在しない、と 感じたに違いない」
それは とても微妙だ −−−
もし考える者が いたら エゴがある。
あなたは 一人の睦州、あるいは他の誰かになる。
だが、無言で 考えることなく、行為だけがあるとき エゴは存在しない。
だから睦州は「お前さんは 本当に見たのか ?
もし本当に見たのなら、そこに睦州という人間はいなかった −−− ただ、お茶を飲んでいるという行為だけが、庭を歩いているという行為だけが、大地に穴を掘っているという行為だけがあった」と 言った。
そのため ブッダは次のように言った、「魂は存在しない」と −−− というのも、 あなたは 見ていないからだ。
あなたは ずっと、自分には魂があると 思い続けてきた。
いや、あなたに 魂はない !
もしあなたが観照者であれば、そうではない。
その「私」は、それ自体が 思考によって形作られている。
そこで もう一つ。
蓄積された思考や 積み重ねられた記憶が、エゴの感覚を生み出す −−− そして、それが あなただ。
(11)終わり(12)へ 続く