saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2話・・・Q&A 二番目の質問 (01)

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「二番目の質問 ーーー」
“ 私の明け渡し(surrender) は目標志向です。
私は自由を勝ち取るために 明け渡しているのです。
ですから,それはまったく本物の明け渡しではありません。
私はそれを見守っています。
けれども,問題は それを見張っているのが いつも〈私〉だということです。
したがって,その見張りから出てくる了解はことごとく自我(エゴ)の補強でしかありません。
私は 自分の自我(エゴ) に騙されているような気がします。 ”



あなたは “明け渡し” の何たるかを理解していない
明け渡しについて心にとどめるべき 第一のことは
あなたは それを や れ な い ということだ
それは やることじゃない

あなたはそれが 起 こ る のを妨げることならできる
けれども,それが起こるのを 手配することはできない
明け渡しについての あなたの力は,消極的(ネガティブ) なものでしかない
あなたはそれを 妨げることならできる
が,それを もたらすことはできないのだ


明け渡しというのは,何かあなたが や れ る ようなことではない
もしあなたが それをやったら,それは 明け渡しじゃない
なぜならば, や り 手(doer) がそこに いるからだ
明け渡しとは
「自分は いない」というひとつの大いなる〈理解〉なのだ
明け渡しとは
自我(エゴ)というものは存在しない
自分は 別々ではない,というひとつの 洞察なのだ
明け渡しとは,〈行為〉ではなく〈理解〉なのだ


まず第一に あ な た が間違っている
その 分離が間違っているのだ !

一瞬たりといえども
あなたは宇宙と別々に存在することなどできない

樹というものは
もし地面から 根こそぎにされたら,存在することなどできない
樹は もし太陽が明日になって消え失せてしまったら,存在することなどできない
樹は もしその根に水分が来なかったら,存在することなどできない
樹は呼吸できなかったら 存在することなどできない

樹というのは 五大要素のすべてに根ざしている
仏教徒たちが “ パンチャ・スカンダ(panca skhanda 五蘊) ” と呼ぶもの
昨日 話をした五つの塊(かたまり)だ
アヴァロキタ(観自在)が,仏陀
超越的なヴィジョンに達したとき
彼が すべての段階を通り過ぎたとき
梯子のあらゆる段を通り過ぎて,第七段に達したとき
そこから見下ろすと,何を彼は見たか ?
彼が見たのは
その中に何の実体もない 五つのあつまりにすぎなかった
ただの〈空〉
シュンニャータ (sunyata) ーー


樹は,もしこれらの五大要素が絶え間なくエネルギーを注ぎ込んでくれなかったら 存在することなどできない
樹というのは,これら五大要素のひとつの組み合わせにすぎないのだ
もし「自分がいる」などと考えはじめたら
その樹は惨めな思いをする羽目になるだろう
その樹は自ら地獄をつくり出すだろう
だが樹々はそんなに馬鹿じゃない
彼らは何の心(マインド) も 持ち運んではいない
彼らはそこに在る
そして,もし明日 彼らが消え失せるとするならば
彼らは ただ消え失せる
彼らは固執しない
そこには誰も 固執するような〈人〉がいないのだ
樹というのは絶え間なく存在に明け渡している


明け渡しているということは
まったく分離していないという意味だ
樹は 自我(エゴ)というような あの愚かな観念を持つに至ってはいない
同じことが鳥たちにも,山々にも
そして星々にも言える

人間だけが
意識があるという大きなチャンスを 自意識へと歪めてしまっているのだ
人間は意識を持っている
もし意識が成長したならば
それはあなたに 可能な限り最大の至福をもたらすこともできる
けれども,もしどこかがおかしくなり
意識が腐って 自意識になってしまったら
そのときには それは地獄をつくる
それは悲劇をつくる
その二つの選択は つねに開かれている
選ぶのはあなただ


自我(エゴ)というものについて 最初に理解されねばならないのは
それが 存在しない ということだ
誰ひとりとして分離して存在しはしない

あなた方も同じように宇宙とひとつなのだ !

私がそうであるように
仏陀がそうであるように
エスがそうであるように ーー
私は それを知っている
あなたはそれを知らない
違いは ただの認識の差だけだ
その違いは 実存的な違いじゃない
そんなことはまったくない
からし
あなたは自分と宇宙が分離している というこの馬鹿げた観念を見抜く必要がある

いいかな ーー
もしあなたが 明け渡そうとしはじめるとしたら
あなたは 依然として分離というその観念を持っていることになる
いま,あなたは
「自分は 明け渡すぞ
是が非でも明け渡してやるんだ」と 考えている
だが,あなたは自分が い る と思い込んでいるのだ


分離という まさにその観念そのものを見抜いてごらん
ある日,あなたは
自分が 分離してなんかいないのを見出すに違いない !
だとしたら,どうして明け渡すことなんかできる ?
そこに明け渡す人など誰もいやしない !
明け渡す人など 一度だっていたためしがないのだ !
そこに 明け渡す主体などいやしない !
まったく いないのだ
けっして見つかることはない

もし自分自身の中にはいっていったなら
あなたはどこにも 明け渡す人など見つけられないだろう
その瞬間の中にこそ,明け渡しがある
明け渡す主体が見つからないその瞬間に,明け渡しがあるのだ
あなたが それを や る ことはできない
もしあなたが それをやるとしたら,それはニセ物だ
ニセ物からはニセ物しか出てこない
あなたがニセ物である以上
あなたが何をやろうと それはニセ物だろう
なおさらニセ物だろう
そして,ひとつの偽りはまた別の偽りへとつながってゆき
それが果てしもなく続いてゆく
そして 根本的な偽りは
自我(エゴ),つまり「自分は別々だ」という その観念なのだ


あなたは,“私の明け渡しは目標志向です” と言う
自我(エゴ) はつねに目標志向だ


(02)へ続く