saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章「自由への恐れ」(10)


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(10)

 

我々は確かに、あるいは別のものに、自分が何をすべきかを 教えてくれるように頼む・・・

社会、宗教指導者(グル)、教典、伝統、両親に。

誰か 別の人間が、自分たちが どうしたらいいのかを 教えてくれるべきだ、誰かが道をさし示すべきだと。

そうすれば、我々は その道を行ける・・・

が、自分たちで 進むことはできない。

そこには 自由があり、恐怖がある。

そのせいで、余りにも多くの宗教が存在する。

 

それらの宗教が 存在するのは、

エスブッダや クリシュナのためではない。

それらの宗教が存在するのは、

自由への 深い恐怖のためだ。

 

あなたは、ただの 一人の人間でいることができない。

ヒンドゥー教徒イスラム教徒、

キリスト教徒で なければならない。

ただキリスト教徒である というだけで、

あなたは あなたの自由を 失う。

ヒンドゥー教徒である というだけで、あなたは もう、一人の人間ではない。

あなたは こう言うからだ。

「私は伝統に 従います。 地図に載っていない、未知のところには行きません。

私は みんなが通る道を歩みます。

私は 誰かの後を 付いて行きます。

一人では行きません。

私は一人のヒンドゥー教徒です。だから、一団の中を歩むのです。

私は個人として歩みません」と。

 

もし私が個人として一人で歩むなら、自由があります。

でもそうしたら あらゆる瞬間、自分で決断し、瞬間ごとに自分自身を生み出さねばなりません。

 

ニーチェ曰く

「今や神は死んだ。 人間は完全に自由だ」

もし本当に 神が死んだのなら、人間は 完全に自由だ。

人間は、それほど神の死を 案じてはいない。

人間は、自分の 自由のことを もっと案じている。

もし神がいたら、全てが あなたに関しては オーケーだ。

もし神が いなければ、あなたは完全に 自由の中に 置き去りにされる・・・自由の刑を 宣告された。

そうなると、あなたは 自分のしたいことを 何でもして、その結果に苦しむことになる。

誰にも 責任はない。

 

エーリッヒ・フロムは

『自由からの逃走』という本を書いた。

あなたが 恋に落ち、結婚を考え始める。

恋愛は自由で、結婚は 束縛だ。

だが、恋に落ちて 結婚のことをすぐに考えない人間を見つけるのは、難しい。

何故なら 結婚は自由であり、恐怖でもあるからだ。

結婚は固定している。

そこに恐怖はない。結婚は一つの制度だ・・・死んでいる。

恋愛は一つの出来事だ・・・生き生きとしている。

恋愛は 動く。 恋愛は 変化する。

結婚は 決して 動かない。

それは 決して変化しない。

 

この結婚という制度ゆえに、確実さや安定がある。

愛には、確かさも 安定もない。愛は 不安定だ。

ふとしたことから現れたように、いつ思いがけなく消えてしまうかもしれない。

いつ消え去ってしまうかもしれない ! 

愛は まったく非現実的だ。 愛は 現実世界に 根を持たない。

愛は 予測不可能だ。

そこで「結婚したほうがいい。 そうすれば、根を持てる。

もうこの結婚が 蒸発してなくなることはない。

結婚は制度なのだから !」ということになる。

 

 

(10)終わり(11)へ 続く