saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (10)

 

私は こういう古代インドの 物語を聞いたことがある ーーー

 

ある男が

死んだばかりの父親を敬うために、伝統的な シュラッドの儀式を行なっていた

シュラッドとは、誰かの 父親が死ぬ時、その旅立ちのために、彼のために 祈る儀式だ

その儀式の最中に、その家の犬が 祈りの部屋に ふらりと入ってきた

この行事を汚されることをおそれて

男は 急いで立ち上がり、外の ベランダの柱に 犬をつないだ

 

何年か のちに 彼が死んだとき

今度は 彼の息子が シュラッドの儀式を 行った

あらゆる細部まで その儀式に従おうと 強く望んだために

その息子は、隣から犬を 一匹捕まえてこなければならなかった

というのも、彼は これは実に重要なことに違いないと 思い出したからだ

「親父は 祈りの途中で 立ち上がって それをやった

そして犬を柱につないだあと、親父は とても喜んで、また祈りに 入った」

そして彼は 何ひとつ見のがすまいとしていた

儀式は 完璧でなければならなかった

 

そのときには、たまたま彼の家には 犬がいなかった

そこで彼は、隣近所ヘ野良犬を探しに走って行かなければならなかった

彼は 一匹捕まえると、その犬を 注意深くベランダの柱に つないだ

そして満足した気持ちで 儀式を終えた

その家では、何世紀にもわたって 依然としてその規則が守られている

実のところ、「聖なる犬」の儀式は その行事のなかで 一番重要な項目になっている

 

これが物事の 動き方だ

人々は 無意識のなかに 生きている

あなた方の父親は あることをしていた

父親の父親も そのまた父親も 何かを やっていた

そして それが 神聖さ という霊光(オーラ)を まとうようになる

あなた方は それを繰り返すだけで、その意味が 何であるか気にとめない

 

エスは神を、わが父(アバ)と 呼んでいた

あなた方も神のことを「父」と 呼びつづけるが、それは 無意味だ

あなた方は そのハートを もっていない

その儀式は ただ表面的だ

 

あなたは 神を アバと呼べるような そのハートをもっていない

意味深いのは アバという 言葉ではなく、ハートのなかの 感覚(フィーリング) だ

そこに そういう フィーリングがあれば、その言葉を 口に出す 必要さえない

フィーリングだけで じゅうぶんだ

が、そこに そのフィーリングがなければ、それは 死んだ儀式に すぎない

 

(10)終わり・・・(11)ヘ 続く