saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第1話ーーー七段の梯子 (12)

アヴァロキタ(正しくはアヴァローキテーシュヴァラ) というのは仏陀の一名だ
その文字通りの意味は,上方から見おろす者
第七の中枢(センター),サハスラーラ,超越の寺院に立ち
そこから見おろす者ということだ

物事の必然として,あなたの見るものは何につけ
あなたの立場によって汚染される
あなたがいるその空間によって汚染される


もし第一の段,肉体のところで生きている人間が何かを見れば
彼は その立場から見る以外にない
肉体的なところで生きている人間は
あなたを見ても,その体しか見えない
彼には それ以上のものは目にはいらない
それ以上のものは見えないのだ
物事の展望(ヴィジョン) というのは
あなたがどこから見ているかによる


性的に混乱している人,性的な空想のとりこになっている人は
その立場からしか見ない
お腹をすかしている人はその立場から見る

自分自身の中で見守ってごらん
物事を見る ーー
と,それを見るたびに物事は違って見える
あなたが そのたびごとに違うからだ

朝の方が,夜よりも世界は少しきれいに見える
朝,あなたは新鮮だ
そして,朝
あなたは大いなる眠り,深い眠り,夢なき眠りから覚めたばかりだ
あなたは,無意識に とはいえ
超越的なるものの何かを味わってきている
そこで,朝は何もかもきれいに見える
人々はより慈しみ深く,より愛にあふれている
人々は朝の方がより純粋だ
朝の方がより無邪気だ
ところが,夜が来るまでには
その同じ人々が もっと汚れた,もっと狡猾な
ずる賢く,巧妙で醜い,暴力的な,欺瞞的な人になってしまう
それは同じ人なのだ
ただ,朝には彼らも超越的なるものにごく近い
それが夜までに
俗なるもの,世間的なるもの
肉体的なところで生きすぎて
彼らの焦点はそこに固定してしまうのだ


完成の人というのは
それら七つのチャクラ全部を通過できる人
ーー それが 自由の人だ ーー
どこの点にも固定されていない人
ちょうどダイヤルのような人を言う
どのヴィジョンにも合わせられる
それが “ ムクタ (mukta 解脱者) ” と呼ばれる者だ
本当に自由な者 ーー

彼は あらゆる次元すべてにはいって行くことができ
しかも,それらに触れられないままでいられる
彼の純粋性はけっして失われない
彼の純粋性は 超越的なるものに属したままだ


仏陀はやって来て,あなたの体に触れ
あなたの体を癒やすこともできる
彼も肉体になることはできる
が,それは彼の自由だ

彼は心(マインド)になって,あなた方に物事を説明することもできる
だが,彼はけっして 心(マインド) ではない
彼はやって来て,心(マインド) の うしろに立つ
それを使うのだ
ちょうど あなた方が車を運転するのと同じように ーー
あなたはけっして 車になってしまうわけじゃない
それと同じように,彼はこうした梯子段のすべてを使う
彼は その梯子全部なのだ
だが,彼の究極の立場が超越の寺院にあることは変わらない
彼の本性なのだ
“ アヴァロキタ ” とは,彼方から世界を見渡す者を言う


“ 聖なる 観 自 在 (アヴァロキテーシュヴァラ)菩薩 が彼方に至る知恵を究めつつあったとき ”

経文は言う…




(13)へ続く