saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

質疑応答集「マイウェイ〔流れ行く白雲の道〕」

「あなた自身が問題…」02
Pp 105 ー 113
(…偽りであるがゆえに 努力はいっさい必要ない。 その正体を見るだけで、それは消えてゆく。)


男が 一人駆けているーーー
死ぬほどおびえ、恐怖にかられて…
自分自身の影を怖れて駆けている!

彼を立ち止まらせて あなたは言う。
君は 馬鹿だねえ! それは 自分の影じゃないですか。
誰も追いかけている人などいないし、誰も殺そうとしている人などいない
君以外 誰もいないんですよ!
君は 自分自身の影を怖れているんですよ!

しかし
一度 駆けだしたら、影もまた走りだすーーー
速く走れば 影もまた速く走る。

そうなったら論理的な頭は “ 危険だ!” と言う。
論理的な発想では こう言うだろう。
逃げたかったら、もっと速く走れ もっと速く! と……

あなたがたが何をしようと 影は後ろからついてくる。
そして もしそれを追い払うことができなかったら
あなたは ますます恐れるようになる。


あなたは すべてを自分自身の中で創作しているのだ。
もし私が
あなたがたに こう言ったとしたらどうだろう?
これは ただの影、誰も追いかけているわけではないーーー

あなたは その正体に気がついたとしよう
あなたは その影を見、それがどういうことかを感じる。
と、そのときあなたは
どのようにして この影を落とすのかと 私に訊くかね?
何かの手法-方法について訊ねるかな?
ヨーガとか何とか、 い か に 落とすかを?

あなたは ただ笑うだけだろうーーー

あなたは それですでに 落としているのだ。
それが影にすぎないことを あなたが見る瞬間
誰も 追いかけている者などいないことを 見る瞬間
それは すでに 落ちているーーー!

どのようにして という問いは そこには無い。
あなたは 気持ちよく笑うだけ
全体が まったくのナンセンスだったなあと……


同じことが 自我(エゴ)に関しても起こる。
もしあなたがたに
私の言っていることの 真実性が見えたら
そ の こ と は す で に 起 こ っ た のだーーー
それを 見ること そのものの内(なか)で
そのことは すでに起こったのだ。
もはや それに関する “いかに?” はない。

それでもなお あなたが
どのようにして? と 訊くのだったら
そのときには それはまだ起こっていない ということ。
あなたは まだその正体を見ていないのだ。

それなのに あなたがたは そこに希望をいだく。
なぜなら
あなたがたは このエゴのために苦しんできたからだ。
あなたがたは 常にそれを落としたいと望んできた。
しかし この願望の半分は 頭から来ているものだ。


あなたがたの 苦しみのすべては エゴから来ているーーー
だが 楽しみのすべても またエゴを通して来る。

たとえば 群衆が あなたを喝采する
あなたを 高く評価する…と、あなたは いい気分だ。
これが あなたがたの知っている唯一のよろこび
エゴは高揚し、頂点にまで達する
それは エヴェレストになるーーー
あなたは 大いにそれを楽しむ。

すると そのうちに群衆は あなたを非難する。
あなたは 傷つく。
群衆は 無関心になる……
あなたは それで打ちくだかれる。
あなたは 谷底に、憂うつの中にころがり落ちる。

あなたがたは エゴを通して 楽しみを得てきた。
また それによって 苦しんできた。

その苦しみのゆえに あなたがたは エゴを落としたい。
しかし
その楽しみゆえに あなたがたには 落とせない。
だから、私が
自我(エゴ)とは 簡単に落とすことができるもの と言うとき
あなたがたは 希望をいだくのだ。

その希望は 私が創りだしているのではない。
あなたがたの 貪欲さが そのように捉えるだけ。
それは覚醒とはならずに、別の 新しい欲望となる。
満足感を求める 新しい探索だ…

それにまた あなたは こう感じる。
方法があるようだ、エゴを落とす手助けを、エゴがもたらす あらゆる不幸を落とす手助けをしてくれる人が ここにいる……

だが、あなたには
エゴがもたらす あらゆる快感もまた 落とす用意があるかね?

もし用意があるのだったら、それは きわめて簡単なこと、影を落とすと 同じようなものだ。

しかし
その 半分だけを落とす ということはできない
その 半分だけを 持ち歩くこともできない。

全体が消えるか
それともまた 全体が残るかの どちらかだ。
ふむ?
これが 問題だ。
そしてまた これがむつかしいところ。


あなたがたの 楽しみと苦しみの すべてが関わっているのは ただ一つの現象だ。
ところが あなたは楽しみのほうは取っておいて
苦しみだけ落としてしまいたいーーー
あなたは 不可能を追い求めている!
それなら むつかしいのは当然だ、いや むつかしいだけではない。
それは 不可能だーーー!

それはあなたに 起こるはずのないこと。
何をしようと それは不毛だ。
どんな結果も そこからは生じてこない。


あなたがたは そこに希望を
一つの天国を
覚者(ブッダ)の強烈な至福(ヨロコビ)を創りあげる。
私に 耳をかたむけていると
あるいはまた
エスたちやブッダたちに耳をかたむけていると
希望が たしかに生まれてくる。
だが私が その希望を創っているのではない。
あなたがたが 創っているのだ。
あなたがたが 希望を投映しているのだ。

これが問題になる、この複雑さがーーー!
どんな希望も エゴにとっては また食料となる
この、楽園に到ろう、天国に到ろう、〈光明〉を得て 覚醒に到ろうという希望でさえ 希望であることに変りはない。

そして どんな希望も エゴにとっては 食料だ。

誰が いったい覚醒しようとしているのかね?
光明を得ようとしている その人そのものが問題だ。

覚醒 す る 人など誰もいない。
それは 起こることーーー!
誰も 光明を “ 得 る ”、覚醒 “ す る ” 人などいない。

その部屋が まったく空になったとき、それは “起こる”!
解脱しようと する人が もういなくなったとき
〈光明〉は そこにあるーーー!

私たちの使う言語ゆえに、この言語の二元性のゆえに
こういった深遠なものごとが語られるときには、どんなものでも偽りになってしまう。

私たちは、ゴータマ-ブッダは〈光明〉を得たと言うが それは偽りだ。
ゴータマ-ブッダは まったく光明など得なかった。
ゴータマ-ブッダは 無明そのものだった……
彼が そこに いなかったとき
彼が 不在になったとき
それは 起こったのだーーー!

或る日、突然彼は、自分が 馬鹿馬鹿しい型にはまっていることに 気がついた。
自分自身が問題であることに 気がついた……
だから、その自分が 何をしようとも
問題は増するばかり……

正しいことをやるか まちがったことをやるか
あれにするか これにするか
そういったことの問題ではなく
“ 何 を や ろ う と も ”
それは 自我を強めるだけのことーーー

ブッダは このことに目覚めたとき
ーーーとはいえ この覚醒までには、何年もの努力があったが ひとたびこのことに気づいたときーーー
“ 私が何をしようとも、それは私のエゴをますます助けるだけだ… ” と 気づいたとき
彼は 為 す こ と を 落としてしまった。

その覚醒の瞬間に
彼は 無為の人となった
行為のいっさい無い人となった。


憶えておくがいい、これが問題なのだから……

あなたがたは、無為からさえも行為を生じさせることができる。
あるいはまた、無為が生じるのを助けるような行為を生むこともできる。
しかし、そこで あなたがたは取り逃がすーーー


あなたは 静かに動かず立っていられる……
静かに 沈黙して坐ってもいられる……

もしあなたが 努力して静かに立っているのだったら
その立っていることは 偽りだ。
あなたは 立っているのではない。
あなたは “動いている…!”

もしあなたが静かに沈黙して坐っているとして
そうするのに 努力があるようだったら
もし 静かに沈黙しよう と しているのだったら
その沈黙は 偽りだ
あなたは 静かではない。


仏陀が 自分自身こそ問題なのだと 目覚めたとき
自分の中から出てくる どんな行為も、自我(エゴ)の実体を増すばかリだったと 気がついたとき
彼は、 ただ “ 落とした ”……

彼は
無為の状態を創りだそうとする どんな努力もしなかった
彼は 何もしなかった……
ただ 起こるがままに ものごとが起こっていただけだった
風はそよぎ渡り
樹々は 踊っていたにちがいない。
それに、その夜は 満月……
〈実在〉全体が祝福していた。
息が からだの中に 入ってきてはまた出ていく。
血が血管の中を循環している。
心臓(ハート)の鼓動、そして脈拍ーーー
すべてが 起こっていたーーー
彼が 為していたことは 何ひとつなかった。
この無為の内(ナカ)で
ゴータマ-シッダルタは 消え去っていたーーー
朝になる頃には
〈光明〉を “ 受ける ” 者は もはやそこにはいなかった。
そこに在ったのは ただ〈光明〉だけ……

あの菩提樹の下に坐っていたのは
一つの 空虚な乗(ジョウ)[媒介]にすぎなかった。
もちろん息はしている
もちろん鼓動は聞こえている
むしろ 今までよりずっとよくーーー

すべてが完全に機能していた…が
そこには それを “為す者” は いなかった。
血液は循環し
まわりの〈実在〉するものすべてが
生き生きと踊っている……
仏陀の 肉体の原子一つ一つが踊っていた
息づいていた。
これほどに活き活きとしたことはかつてなかった。
今や
エネルギーは ひとりでに動いている。
誰も それを強いる者はなく
誰も それを操作する者はいない。
仏陀は 一片の白雲になったーーー
〈覚醒〉が 起こったのだ……


それは あなたにもまた起こりうる。
だが、そこに 希望をいだいてはならないよ。
むしろ、肝心な点を見て 希望をすべて落とすことだ。
希望を絶やしなさい
完全に “絶望”するがいい。
完全に絶望する というのはむつかしいことだ。
何回となく あなたがたは絶望状態に陥る。
それは けっして完全ではない。

一つの希望が落ちて 絶望的に感じるとしても、すぐさま それを補充するために もう一つ別の希望をいだくのだ。
と、その絶望感は消え失せる。


人は
一人の導師(マスター)から また別の導師(マスター)へと渡り歩くが、これは一つの希望から次の希望へと移り行くことにほかならない。

人は導師の許(モト)へ希望をいだいて出かけていく。
その慈悲をもってして、そのエネルギーをもってして
師は ものごとを起こらせてくれるのではないかと……
そして試みたり、非常に緊張して待ったりする。
というのも
希望する精神(マインド)は けっして楽にしていられないからだ。
それにまた非常にもどかしげに待つ、というのも、希望でいっぱいになっている精神(マインド)には 忍耐することができないからだ。

それからまた そういう人たちは落ち着きを失ってくる。
なぜなら何一つ起こってこないからだ。

となると、この師は まちがっているということになって
また別の人の許へ移って行く。
これはもう
一人の導師(マスター)から次の導師へと動いているというより、一つの希望から次の希望へと動いていることだ。

人は一つの宗教から次の宗教へと渡り歩く
改宗や転向があるのは、ただただ希望のゆえだ。
あなたがたは 幾世にもわたってそんなことをつづけていくことができるし、事実、今までずっとそうやってきた。


さあ
要点を見ようとしてごらん!

これは、導師(マスター)が どんな人かの問題でも、手法が 正しいかどうかの問題でもない。

これは、直接的な洞察の問題だ。


つまり、現象の内部に即座に浸透していくことーーー
何が起こっているか? なぜ希望するのか?
なぜ 希望することなしにはいられないのか?
そしてまた
そう希望することから 今までいったい何を得たか……?

それを 見るがいい。
見えたら それは ひとりでに落ちてゆく。
あなたは それを落とせと求められてさえいない。
だからこそ 私は 簡単だと言うのだ。
そしてまた同時に 私は
それが きわめてむつかしいことも よく知っている。
むつかしいというのは あなたがたのゆえ
また、簡単だ というのは それ自身のゆえだ。
現象は簡単なものだが
あなたがたが むつかしい---


それに これはいつでも起こりうる。
これはいつでも起こりうると私が言うときには
〈解脱〉の現象、〈無我〉の現象には、起因となるものが まったくないという意味で言っている。

原因は いっさい必要ない。
それは多くの原因理由の成果でもなければ
何かの 副産物でもない。
それは 単純なる看破ーーー

罪人にさえ 起こりうる、が
聖者であっても 起こらないかもしれない---

したがって、必要条件など ほんとうにいらない。
もし見ることさえできたら罪人にだって起こりうる
もし彼が 希望することをやめたら
得るものも成就できるものも何一つないと感じとり
“こ と ” 全体が まったく馬鹿げた 一つのゲームにすぎないと見えるようになったら
それは 起こりうるーーー!

だがそれは、聖者であっても起こらないかもしれない。
なぜなら聖者は成就を求めて 試みつづけるからだ。
聖者は まだ絶望していない。
こ の 世 は 無意味になったかもしれないが、 あ の 世 が 意味あるものになってきた。

彼は この地上からは立ち去らねばならないと 気がつきはしたが、まだ彼方に 天国がある……、彼は それを成就しなければならない……


それにまた イエス仏陀の近くにいた人たちでさえ
これに似た事柄を何度となく訊いている。




「あなた自身が問題…」03 へと つづく---