saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,


f:id:saleem:20230303172534j:image

二番目の質問 (03)

( …聖者は ただ その二つの間で 自分のバランスを 取る。

そこに 選択は ない。

彼は 悪に対抗して 善を選択してはいない )

 

もしあなたが 悪に対抗して 善を選ぶなら、遅かれ早かれ、善に対抗して 悪を選ばなければならなくなる。

というのも、あなたは 一つの方向へと動いた。

すると 今度は、別の方向へ動く必要がある。

ゆえに、聖人は 常に罪の方向へと進み、罪人は 常に聖人の方向へと進んでいる。

聖人には 罪の瞬間があり、 罪人には 聖なる瞬間がある。

それぞれの聖人のなかに、可能性として 罪人がいる。

そして、いつであれ 余りに聖人で あり過ぎると、今度は 罪人が バランスをもたらすことになる。

ゆえに 彼ら、 知る者は「一日 二十四時間、聖人であることはできない。 休みを取るべきだ。

常に 聖人であり続けることは 退屈で大変だ」と言う。

人は そういう状態から逃れざるを得ない。

 

そこで聖人には、聖人であることから逃れるための、 独自の トリックがある。

あなたは ずっと罪人では いられない。

それは 難しい −−− 不可能だ ! 

あなたは その境地から下落し、死ぬ。

その状態から どこかへ動かねばならない ! 

そこで時々、罪人が こんな聖人的な行為をするのか と、聖人が その行為をしたことさえ考えられないほどのことを、罪人がすることが ある。

時に罪人は まったく聖人のようになり、信じがたいほどだ。

だが 彼らは バランスを取っている。

 

宗教は 善悪 −−− 選択には関わりない。

 

宗教は 無選択の 超越だ。

 

存在の この二律背反を悟り、 賢者、 二律背反を知る者は、ただ 選択することを捨てた。

 

そのとき、彼は 決して左へ動かず、右にも 動かない。

彼は 真ん中に留まる。

ブッダは それを マジヒム・ニカヤ −−− 中道と 言った。

ブッダは 言う。

「私は 選択しない。 私は その中間に留まる −−− ちょうど 中間に」

 

選択しなければ、あなたは超越する。

それは 可能だ。 超越は 起こるかもしれない。

起こらないかも しれない。

が、それは可能だ。

右と左、罪人と聖人、善と悪、良いことと 悪いことの間を 絶えず揺れ動いている。

そうした世界を  超越することは可能だ −−− そういう状態の中で、バランスを取っている世界を 超越することは 可能だ。

 

それが 宗教的な世界だ。

道徳的な世界ではない。

それは 非道徳的な世界でもない。

それは宗教的な世界なのだ ! 

 

宗教と 道徳の 延々と続いてきた混同を、 止めるべきだ。

宗教は 道徳ではない。

道徳とは、 何かに 反して 何かを 選ぶ という 一つの選択だ。

 

 

(03)終わり(04)へ 続く