saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第7話 ーーー 〈無〉に 帰依する (14)

…( これは ごくごく重要な声明だ
仏陀
人は それが何であれ 何ものにも依存すべきではない と言う
さあ,これは 一般的な仏教とは非常に反することだ )

なぜならば
一般的な仏教には 三つの根本的な帰依が あるからだ
ブッダム サラナム ガッチャーミ (仏への帰依)
サンガム サラナム ガッチャーミ (僧への帰依)
ダンナム サラナム ガッチャーミ (法への帰依)

弟子は 仏陀のところへ やって来ると
彼の足元に額づき,彼に明け渡して

「私は仏陀の庇護のもとに入ります」と言う
ブッダム サラナム ガッチャーミ ーーー

「私は仏陀のコミュニティーの庇護のもとに入ります」
サンガム サラナム ガッチャーミ ーーー

「私は仏陀によって教えられた法の庇護のもとに入ります」
ダンナム サラナム ガッチャーミ ーーー


ところが,仏陀は 心経の この部分で
人は 何ものにも依存すべきではない
何の 帰依もない
どこにも 何の避難場所もないと 言う


この般若心経は 仏教の魂と呼ばれ
そして仏陀の教団は その体だと呼ばれてきた
これら三宝帰依は 何かの隠れ場所,何かの つっかい棒
何かの 支えを追い求めている ごくあたり前の心(マインド)のためのものだ
それに対して心経における声明は

第六段まで やって来て
ちょうど 第六と第七の間で 宙ぶらりんになっている
最高の段に すぐ手の届きそうな 魂のためのものなのだ
ほんの ひと押し ーーー


“ それゆえに,おおシャーリプトラよ・・・”


仏陀の 最初の説教は,法の車輪を回す説教
ダンマ・チャクラ・プラヴァータン・スートラ (Dhamma-chakra-pravatan Sutra 転法輪経) と呼ばれている

それが ベナレスの近くでの 彼の最初の説法であり
一般大衆のための いわゆる一般的な仏教は それによって生まれた
その説教の中で 彼はこう宣言している
仏陀の庇護のもとに来たれ
仏陀によって教えられる法の庇護のもとに来たれ
仏陀のコミューンの庇護のもとに来たれ」と


20年の後
彼は心経に述べられている この第二の摂理を宣言した

彼が数人の人々を 最高の可能性にまで導くのに 20年 かかったのだ
これが第二の 最も重要な説教と呼ばれている
最初の
彼が人々に「私の庇護のもとに来たれ
私は 成就した !
私の庇護のもとに来たれ
私は たどり着いた !
私の相伴をしに来たれ
私は 到着した !
私に従うがいい」と語ったのは
ベナレスの近くの サルナート(鹿野苑 ろくやおん )だった
それは 一般的な心(マインド) のためのものだった

それは 当然だ
仏陀は 心経を宣言することだって できた
が,大衆は それを理解できなかったに違いない
そうして 20年間
彼は弟子たちに 働きかけた
いまや シャーリプトラは ごく近くまで来ている
その近さのゆえに 彼は言う


“ それゆえに,おおシャーリプトラよ・・・”


いまこそ私は それをあなたに言うことができる
私は その
“知恵の完成に依って” ということを あなたに向かって語れる
ただひとつだけ人が 依って立たなければならないものがある
それが 瞑想だ
ただひとつ 人が依らなければならないものがある
それが 覚醒だ
注意深さだ
ただひとつだけ人が依って立たなければならないものがある
それは その人自身の 内なる源,内なる実存だ
ほかは 何もかも落とされねばならない
一切の庇護 ーーー


瞑想の完成以外 何ものにも依らないということを通して
人のなすべきは
世間的なものも そうでないものも 何ものにも依存せず
一切を 手放すこと



(14)終わり・・・(15)へ 続く