saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第五章 「〈光明〉の味 」 (09)

(…仏陀は、静かに澄んだ〈信〉が 必要だ と言う
静かに澄んだ〈信〉とは 何か ?
それは、選択からではなく、まさに理解から 生まれる〈信〉だ )

つい先日、私は チンタナからの手紙を 受け取った
彼女は キリスト教の修道女だったが、いまは、心が 乱れていた
彼女は 私と共に いるべきか、僧院に帰るべきか、決めかねていた
いまや、彼女のすることは 何であれ 混沌状態からでてくる

彼女が 私と共にいることを決めたら、マインドの 一部分が 彼女と闘いつづける
僧院に帰ることを決めたら、マインドの 一部分が ここにいることを望みつづける
彼女の選択することは 何であれ まちがいになる
その選択そのものが 動揺や心配から出てくる

それは 一種の抑圧になる
もし彼女が 僧院を選んだら、私への愛を 抑圧することになる
もし私を選んだら
僧院への願望、僧院の隠遁性、孤立性、守護、快適さ、便利さを 抑圧することになる


さて仏陀は チンタナにどういう示唆をするか ?

仏陀は「瞑想しなさい、選ばないことだ」と 教えるだろう
急ぐことはない
無選択で いることだ
瞑想し、祈りなさい
もっともっと 静かになりなさい
静かに澄んでいる状態から、選択が生まれる一瞬がくる
あなたが あなたの部分に反対して 選択するのではない

それは ただ、静かに澄みきった境地から、蓮の花のように開花する
それは 全面的な 開花だ
あなたの全存在が それ と 共にある
それは何か ほかの可能性に対立する 選択ではない
それはただ あなたの香り そのものだ

そうなれば あなたはもう 引き裂かれてはいない

それを仏陀は「静かに澄んだ〈信〉」と 呼ぶ
そして 彼は言う
「静かに澄んだ〈信〉は
たった 一念でも、人間を変容させるのに じゅうぶんである」


これは チンタナへの 私の示唆でもある
今日の彼女は 普段より心乱されているかもしれない
今日は 十二月 二十五日だ・・・
彼女は 引き裂かれているだろう

だが私は彼女に、私を選べとも僧院を選べとも 示唆しない


選ばないこと
待ちなさい
忍耐を もちなさい
神が 選ぶがままに まかせなさい

瞑想 しなさい


どうしてあなたに 選ぶことが できよう ?

あなたは まだ選べるほど 賢明ではない
祈りなさい、そして待ちなさい

策を弄してはいけない
なぜなら、あなたは自分のマインドに 策を弄することが できるからだ
あなたは 自分の考えを もつことができる
あなたは 実際には 選んでしまっているーーー

そして それからあなたは 待ち、裏口から 自分の選択を押し入れる
そして それは神から来たものだ と 信じることもできる
いいや、私が選ぶな と 言うときには、選んではいけない
選ぶことを 忘れなさい

どうしてあなたに 選ぶことができよう ?


瞑想しなさい
静かに、澄んでいなさい
静かに、沈黙しなさい
ある日、マインドのなかに どんな思考もなくなるとき
不意に あなたは何かが決定されたのを 感じる
そして それを決定したのは あなたではない
それは 神の決定だ
そのときには、それが 何であれ、それは いい


“ 彼らは スブーティよ
仏智を以て如来(タターガタ)に知られている
彼らは スブーティよ
仏眼を以て如来(タターガタ)に見られている
彼らは スブーティよ
如来(タターガタ)に完全に知られている ”


さて この二つのことが 理解されなければならない
ひとつは タターガタ tathagata という言葉だ
それは非常に 不思議な言葉だ
それには 二つの意味があり、互いに まったく反対だ
互いに 完全に 正反対の 二つの意味ーーー
それは 不思議な言葉だ

一番目の意味は、如来 tatha - agata
それは「かくの 如く 来た」という 意味だ

二番目の意味は、如去 tatha - gata
それは「かくの 如く 去った」という意味だ

ひとつの意味は「かく来たり」、 もうひとつは「かく去りぬ」だ


幾人かの人々は 一番目の 意味を選んだ
「かく来たり」ーーー
この場合には それは、自分で来たのでは ない者
ここへ来る いかなる動機もない者、を 意味する
それがキリスト教徒たちが キリストについて 好む点だ
キリストは 神につかわされた

彼には、ここで達成されるべき動機や 欲望は いっさいない
彼は 使者として 来た

それが イスラム教徒たちが マホメットについて 好む点だ
彼らはマホメットを パイガムバル、使者と呼ぶ

彼は 自分自身の欲望を満たすために この世に来たのではない
彼は 完全に 満ち足りている
ここに いるべき理由は 何もない

ほかの人たちは 理由があって ここにいる
彼らは ただ来たのではない
彼らは 彼らの欲望のせいで来た
彼らは 来たかった、だから来たのだ


仏陀は 来た
彼が来たかったからではない
彼は〈存在〉そのものによって 送られた
彼のなかで 形をとっているのは〈存在〉だ

それには 理由も動機もなく、個人的欲望は いっさい ない
それが タターガタの 一番目の 意味だ
「かく 来たり」ーーー


幾人かの 人々は 二番目の意味を 選んだ
「かく 去りぬ」ーーー



(09)終わり・・・(10)へ 続く