二番目の質問 (01)
質問・・・・・・
OSHO、昨夜、あなたは 一つの方法としての、目撃することについて話されました。
別の時に、私は あなたが、自分が関わっているものに完全になること、与えられた状況がどんなものだろうと全面的に関わる、と 話されているのを聞きました。
たいていの場合、私はそれら二つのどちらに従えばいいのかわからないのです。
その状況から退いて、距離を置くやり方で見ているか、あるいは全面的にそのものになってしまうか −−− たとえば、怒りの感情が、愛が、悲しみがある時に。
それらは正反対の道ではないのですか ?
それらは両方異なる状況のために、また異なるタイプの人々のためにあるのではないですか ?
人はどういう時に、どちらの方法を実践すればいいのでしょうか ?
それらは二つの 根本的な道だ −−− たった 二つしかない。
一つは 明け渡しのものであり、もう一つは 意志のものだ。
明け渡しの道と 意志の道だ。
実践していくことに関しては、それらは正反対の道だ。
だが、それらは 同じゴールにたどり着く。
同じ 悟りにたどり着く。
そこで、我々は その詳細について もう少し 理解しなければならない。
意志の道は、あなたの 目撃する自己(セルフ)と ともに始まる。
それは あなたのエゴとは 直接関わりない −−− 間接的にだけ 関わっている。
目撃から 始めること、自分の行為に対して 意識的であることは、あなたの 内なる自己の目覚めに 直接関わる。
もし 内なる自己が 目覚めれば、必然的にエゴは 消え去る。
あなたは エゴに直接何かを したわけではない。
それらは 両方同時に存在できない。
もし あなたの自己が 目覚めれば、エゴは消え去る。
意志の道では、内なる中心を 直接目覚めさせようとする。
多くの多くの方法が そのために 使われる。
どうやって 自己を 目覚めさせるか ?
そのことについて、これから 話そう。
明け渡しの道 では、自己でなく 直接エゴに関わる。
エゴが消えれば、内なる自己は 自動的に目覚める。
明け渡しの道では、じかに、直接にエゴに関わる。
あなたは 内なる自己を目覚めさせる ために
何かをする 必要は ない。
あなたは ただ、エゴを明け渡せばいい。
エゴが 明け渡されれば、あなたは 目覚めた内なる自己と ともに留まる。
無論、それら両方の道は 反対方向に働きかける。
一つは、エゴに関わり、もう一つは 自己に関わるからだ。
それらの方法、それらの技法は 反対だ −−− 誰も両方の道に ついていくことはできない。
また その必要もないし、不可能だ。
それは、すべての人が選択することだ。
もし 意志の道を選べば、あなたは 自分一人になって
自分自身に 働きかけねばならない。
それは 骨が折れる。
人は奮闘し、闘わなければならない −−−
精神的な眠りを 作り出している古い習慣と 闘うことだ。
そして、唯一の望みは 深い内側での目覚めだけになる。
意志の道に従う者は、たった ひとつだけ罪を知っている。
その罪とは、精神的な眠気だ。
それに対しては、たくさんの技法がある。
(01)終わり(02)へ 続く