saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,


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最初の質問 (02)

( 愛には 愛独自の言葉が あり、知には 知独自の 言葉があるからだ。

愛には、愛独自の言葉がある ! 

それらの言葉は 正反対だ )

 

たとえば、知はいつも 一つのものに 突進していく。

一方、愛は 二つのものがなければ あり得ない −−− 

愛は、二つの 相反するものがあって、初めてあり得る。

だが私は「愛という現象は、きわめて神秘的な体験だ」と 急いで付け加えなければならない −−− 

それは 二つのものの 一体性だ。

二つの ものが 必要だ。

が、ただ二つのものだけで、愛がある わけではない。

その二つが 深い 一体性を 感じ始めたとき、愛が 起こる。

 

愛は 、 二重の二元対立だ。 二つの ものの 一体性だ。

二元性が 必要だ。

と 同時に、一体性が 感じられる 必要がある。

 

愛の言葉は「愛する者と 愛される者」という 二元性で 維持される。 それらは 両極だ。

それらの 両極のあいだで 一体性が 感じられる。

が、その 一体性は 両極なくして あり得ない。

 

恋人は言う。

「私は 愛する人と一つになった。  愛する人は 私の中にいるのです」と。

が、その人は 知の言葉を話せない。

彼には、二元対立が 消え去ったとは言えない。

彼は ただ「二元対立が 幻のようになった」としか 言えない。

「私たちは 二つです。それでも二つではありません」と。

 

それは パラドックスだ −−−「私たちは二つです。それでも私たちは 二つではない」−−− それは 愛の言葉だ。

 

それは 数学的ではない。 それは あり得ない。

 

それは フィーリングの 言葉だ。

あなたは、相手と一つにならずに、一体である と 感じられる。

一つになる 必要はない。 それは 関係ない。

あなたは相手と 融合せず、相手の中に 溶け去らずに、

一体であると 感じられる。

外側で、あなたたちは 二つのままであり、内側で ひとつに なれる。

そして 献身の道、愛の道は 言う。

「一体性が、二つのものが 溶け去るという意味なら、一体性は退屈なもの に過ぎない。 その一体性には 詩がない。 その一体性には 潤いがない。 その一体性は 数学的な一体性だ」と。

 

愛は 言う。

「一体性とは、何かもっと 生き生きしているものだ。 数学的な統合ではない」

愛するものと愛されるものが 二つのまま留まり、尚且つ 彼らは、自分たちが お互い溶け去ったと 感じ始める。

 

二つであることは そのままでも、 それが さらにさらに、幻想のように なっていく。

二つであることより、一体性が さらに 真実なものに 感じられる。

が、二つである ということは、そのままだ。

 

 

(02)終わり(03)へ 続く