saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 「残るのは知るものだけ」 最初の質問 (01)

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最初の質問

愛する和尚、

あなたは何者なのですか。
あなたは、私たちと 何の遊びをしているのですか。
また、どれくらいの間 するつもりですか。
説明してください。



率直に言えば、いつだって 私は 何者でもない。
私には自分が 誰だかわからない。
私のいる この場所では、知識というものが成りたたないからだ。
知る者だけが 残り、知られる者は 消えてしまった。
器だけが 残っていて、中身は もうない。

知識が成立するには、実在が 大きく二つに 分割されなくてはならない。
すなわち、知るものと 知られるものとに。
その二つの間に 知識は生まれる。
知識が生まれるには、知られるものが 不可欠となる。

私のいる空間は、まったく分割されていないし、分割することもできない。
したがって、厳密に言えば、知らない ということになる。


あなたにも この汚れのない無知、知に非(あら)ざる段階に達してほしい。
知に非ざることは、知の最高の段階だからだ。
いいかね、「知識の」ではなく「知の」だ。
そして、 この 知 には中身がない。
何かを 知っているというのではなく、知るものが ないのだ。
確かに あなたはいる。
私は いる、だが私には 誰だかわからない。
すべての同一化が消え、途方もない虚空だけが あとに残っている。

私はそれを 虚空と呼ぶ。
というのも、あなたが同一化しているもので溢れているからだ。
同一化がなければ、それは 虚空でも不在でもなく、絶対的な現存、元より神秘的で、知識には引き下げられない 現存する何か だ。

私には 自分が誰だかわからない。
だが、 私は この「知に非ざること」に 途方もなく満足している。
この「知に非ざること」の扉に来た者は 皆、あらゆる知識や 知識の名の下に行われている愚行を 笑ってきた。
知識なんてつまらないものだ。
非知の状態にいることは、知的であり 気づきがあるということだ。
それには 蓄積がない。
出来事は、起こるたびに消えていく、後ろに 跡は残らない、何の跡もつかない。
人は 非知の状態から、再び 純粋になって、再び 無垢になって、再び 子供のようになって出て来る。

だから私は、海岸で 貝殻や きれいな色の石を集めていたころの子供になった。
だが、途方もなく満たされている。
私は いない、だから私には 自分が誰だかわからない。
「私はいない」と 私は言うが、それは もはや「私」という表現が適切ではないということだ。
私は その言葉を使う。
使わねばならないのは明らかだし、「私」という言葉に 反対する理由もない。
だが、私の内的世界にとって相応しくない言葉になってしまった。
私が 一人でいるとき、私はいないからだ ーー あなたといるときには まだ役に立つが。
あなたといるときには、伝達の便宜的手段として この「私」という言葉を使わなければならない。
だが 一人のとき、私はいない。
単独性が そこにある、存在性がそこにある、しかし「私」は いない。
それなのに、誰が、誰を知るというのだろう ?

最初に 中身がなくなった と 言ったが、今度は 器もなくなった と言っておこう。
というのは、あなたに受け入れる用意が 整えば整うほど、多くを語れるからだ。
器は、中身があって はじめて意味を持つ。
中身がなくて、器にどんな意味があるだろうか。
そこには 器も中身もない。
にも拘わらず、そこには 何かが在る、とてつもなく在る、絶対的に 在る。
だが、 それにつけるべき名はない。
あなたは 愛を込めて、この空間を バグワンと呼ぶ。
私も深い崇敬の念を込めて バグワンと呼ぶ。



(01)終わり・・・(02)へ 続く