saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「宝もの The treasure 」 (14)

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この「現在」は 教えられないが、サットサングの真価によって、ツァディック、マスター、グルと ともにあることの真価によって 掴み得る。

何もせず、ただそこにいる。
事実、マスターは 何もしない。
ただ そこにいるだけだ。
マスターとは 祈り、絶え間のない感謝だ。
息をするたびに、マスターは 神に感謝する。
言葉で 言うのではなく、その息自体が 感謝なのだ。
心臓の 鼓動のたびに、ありがとうを 言い続ける。
そのありがとうは 言語的なものではなく、実存的なものだ。
そういう人といることは、あなたが 祈りの何がしかを味わううえでの 助けとなるだろう。
その 味わいは、あなたを 生の 新たな旅、内なる旅に 向かわせるだろう。


あなたは 何世紀も、何百年も 探し続けている。

しかし、まだ 見つけていない。
さあ、探求者を 探求しよう。
あなたは あまりに長いあいだ 外界を旅し、とても疲れ 消耗している。

エスは言う、「疲れたる者、重い荷を 運びたる者は 私のところに来るがいい。 休息を 与えよう」。

どういう意味だろう ?
単に「私のところに来なさい。 私は 安らいでいる。
私の 近くに来なさい。 安らぎを 味わいなさい」という意味だ。
まさに その味わいが 潮の流れを変え、あなたは 内に向かい出すだろう。

あなたはここに、私とともにいる。
私の存在を 味わいなさい。
私の 言葉を聞くのではなく、私 というものを聞き、味わいなさい。
そうすれば、突然あなたは 今ここ に いるようになるだろう。
内に向かい、何も 求めず、何も 欲せず、未来に動いていくことも、過去にしがみつくことも なくなるだろう。

この瞬間が 開放であり、 光明なのだ。



きょうは これくらいにしよう。


(第七章 終わり・・・第八章 Q and A へ 続く)