saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 「残るのは知るものだけ」 最初の質問 (02)

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つい先日の晩、私は『カレント Current』に掲載されている手紙を読んでいた。
手紙の主は、誰が 私をバグワンに任命したのか質問していた。
ところで、バグワンは 任命されるようなものであるはずがない。
もし誰かが 誰かをバグワンに任命したならば、任命される者ではなく、任命する者こそバグワンだろう。
それは承認、認知だ。
バグワンとは、世俗的と言われるもののすべてが 消失しているということ、それ以外の意味はない。
所有したい、されたいという欲望、貯めこもうとする欲望、執着、生存願望、リビドー、生への欲動が消失している。
こうした欲望がなくなっているのに、欲望の煙が消え 純粋な炎が残っているだけなのに、誰が任命するというのだろう ?
任命する誰が そこにいるというのだろう ?
バグワンは 任命ではない。
もし、任命という言葉がとても お気に入りなら、「バグワンは自任である」と言っておこう。
しかし、それも あまり意味がない。
バグワンは 宣言だ。

手紙の主は、私に 誰が任命したかを言わせたがっている。
私が誰かは、誰にも決められない。
これは 私の宣言だ。
私の中で 何が起こったかは、私しか知らない。
他には誰も 知り得ない。
あなたも その聖なる状態に達しない限り・・・その状態は あなたの背後に隠れている。
あなたに そこに入るだけの勇気があるなら、いつだって入れる。
入って はじめて、私のことが わかるだろう。
それ以前には わからない。

私も、途方もない崇敬の念を込めて この空間を「バグワン」と 呼ぶ。
「バグワン」という言葉は とても美しい。
英語の「ゴッド」は さほどでもない。
「バグワン」とは 祝福された者のこと、それ以外の意味はない。
祝福された者 ーー 私は自分を、祝福された者と 宣言する。
そうするのは、あなたも 心(ハート)を得て 祝福された者になろうとするように、私の存在が あなたの中で夢となるように、私の存在が あなたを内なる旅へと導くように、私の存在が、あなたの内部に火を起こすようにするためでしかない。
火は あなたを焼く。
あなたは焼かれて、真なるものに生まれ変わる。
火はあなたを 破壊する、あなたは 跡形もなくなる。
だが、そこからあなたは、同一化も 名前も 形もない、まったく新しいものとなって出て来る。

自分がバグワンであると宣言したのは、あなたにも そう言えるようになってほしいからだ。
あなたは その言葉を忘れてしまった。
あなたの前には、観念でも経典の中の人でもない、現実の人が いなくてはならない。
クリシュナは ギータの中に、キリストは聖書の中にいる。
彼らは いたかもしれないし、いなかったかもしれない。
それは誰にも わからない。

ちょうどここに、あなたの目の前に 私はいる。
私に対して 開く勇気があれば、突然 あなたは種から 芽が吹き出すだろう。
あなたは未知の次元で 成長し始めるだろう。
その次元に あなたの手が届くよう、私は自分が バグワンであると 宣言する。
これは他人の知ったことではない。

だが、自分をバグワンだと はっきり言うのは、私が 存在しないからに他ならない。
ひとり存在しない者だけが、己を 祝福された者と呼ぶことができる。

あなたが いれば、あなたは 不幸なままだ。
あなたの 存在自体が 不幸なのだ。
地獄は どこかにあるのではない。
地獄とは 閉ざされた状態、「私」と ともに生きる 不幸な状態のことだ。
自我とともに生きるのは 地獄に生きることだ。


「あなたは私たちと何の遊びをしているのですか」と 尋ねている。
確かに それは遊びだ。
私は、深刻ではない。
もしも あなたが深刻なら、あなたとの出会いはないだろう。
深刻さと 私の道とは 交わらない。
私は断じて 深刻ではない。
これは 遊びだ。
私は この遊びを「狂気のゲーム (mad game)」と呼びたい。

その mad というのは 私の造語だが、 mは マスター(master)、dは 弟子(disciple) を表す。
マスターと弟子の ゲームだ ! 狂気の ゲームだ !
私は マスターであることにかけては達人だ。
あなたの方も、弟子になる用意ができているなら、さあ始めよう !

また、それは他人が 関知することではない。
私と あなたのゲームだ。
私は マスターになろうと決めている、あなたが 弟子になろうと決心すれば、ゲームは 始められる。
弟子になる決心をした人たちは、ゲームを 途方もなく 楽しんでいる。

いったん弟子になろうと 決めてしまえば、あなたは 別世界に入っていく ーー 心の、愛の、信頼の世界に、まったくの別世界に。
そのとき、それはゲームとなる。
あなたは 深刻ではないが、とても誠実だ。
深刻を 誠実と 取り違えてはならない。
誠実は とても遊び好きで、けっして深刻ではない。
真正、誠実ではあるが、深刻ではない。
誠実に 浮かぬ顔はない、誠実は 喜びではじけている、内なる喜びを 放っている。


私は ここにいる、それを 楽しみなさい。
弟子になる決心をすれば、そして 決心したときにのみ、私がここでやっていることが理解できるだろう。
そのときにのみ、この狂気のゲームが、この気違いじみた狂気のゲームが理解できるだろう。
それは 遊び、実のところ、生における 究極のゲームだ。
あなたは他のゲームを たくさんしてきた。
だが、 これは 最後のゲームだ。
恋人、友人、父親、夫、妻、母親、兄弟、金持ち、貧乏人、指導者、従者を 演じ、あらゆるゲームをしてきた。
あらゆるゲームをしてきた人しか、このゲームは できない。
その人たちなら、このゲームをするほどに 充分 成熟するだろう。

これは 最後のゲームだ。
このあと ゲームは終わる、ゲーム遊びが 終わる。
正しく このゲーム、師と弟子のゲームをすれば、やがて すべてのゲームが終わる地点に到達する。
あなただけが 残る、そこには 師も 弟子もいない。
これは 方便に過ぎない。

ゲームのルールが 正しく守られれば、師と弟子の間に 深い愛が生まれる。
それは芳香であり、師と弟子という堤の間を 流れる川だ。
部外者に理解しがたい理由はそこにある。
しかし、部外者に理解してもらうことに関してはまったく興味がない。
それは非常に秘教的なゲーム、内部の人たちの、狂人たちだけのゲームだ。
部外者は理解しないだろうから、彼らの質問に答えることにすら興味はない。
理解できるような 存在の高みに達していないのだ。

ちょっと考えてごらん。
チェスをしている二人がいる、だがあなたは チェスを知らない、としよう。
あなたが チェスの質問をしだしたら、彼らは「静かにしてくれ。 まずチェスを勉強してきなさい。 チェスは複雑なゲームなんだ」と 言うだけだろう。

だが、この狂気のゲームを始めたら、チェスなど何でもなくなる。
生の全体 ーー 情緒、感性、知性、肉体、精神、魂の すべてが巻き込まれ、すべてが危うくなるのだから。
それは 最後の ギャンブルだ。

内部の者にしか 理解はできない。
部外者はいつも、私たちのゲームを 不愉快に思っている。
彼らは 理解する言語を持たない。

私は、聖職者を演ずるために ここにいるのではない、預言者を演ずるために ここにいるのではない。
本当のところ、預言者というのは 変装した政治家に他ならない。
預言者の言葉は 政治家の言葉だ。
もちろん宗教の名を借りてはいるが。
預言者は 革命的だ。
世界を、全世界を望み通りに変えたがる。
私に、世界を変える 計画はない。
世界は あるがままで まったく構わないし、あるがままであるだろう。
預言者たちは 皆 失敗した。
そのゲームは 失敗を運命づけられている。

私は、いかなる宗教にも属さない。
だから 聖職者ではない。
私は 宗教 それ自体に属しているだけだ。
私は ユダヤ人でも、ヒンドゥー教徒でも、イスラム教徒でも、ジャイナ教徒でもない。
私は いかなる宗教にも属さない。
だから 聖職者ではない、伝道師ではない。
私は ただ、純粋な宗教を愛する。



(02)終わり・・・(03)へ 続く