saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第8話 ーーー Q&A 最初の質問 (05)

…( 語源 “ブッドゥ” = 知性 の 三番目の意味は
知る ということ,理解する ということだ )

仏陀は “ 在 る そ の も の (that which is) ” を 知る
彼は 在 る そ の も の を 理解する
そして まさに その理解の中で
彼は 一切の束縛から 自由なのだ
知ること
物識りになる というような意味においてではなく
“理解する” という意味において ーーー

仏陀は 物識りなのじゃない
知性的な人 というのは
情報や 知識などに あまり 構いはしない
知性的な人 というのは
もっと 知 る 能 力 の方に 注意を払う
彼の 本当の真正な興味は 知 る こ と に ある
知識 じゃない


知 る こ と は あなたに〈理解〉を 与えてくれる
いわゆる知識は 本当の理解を与えることなく
理解したような感覚を与えてくれるにすぎない
知識というのは ニセ札だ
それは 欺瞞的なものだ

それは あなたに
自分は 知っている という感覚を与えてくれるにすぎない
しかし,あなたは 全然 知りやしないのだ

あなたは好きなだけ知識を かき集め続けることもできる
貯え続けることもできる

あなたは とてもとても物識りになることもできる
本を書くこともできるだろうし,学位を取ることもできるだろう
哲学博士,文学博士に なることもできるだろう
それでもなおかつ,あなたは依然として
あいも変わらぬ同じ無知な 愚かな人物のままなのだ
そういう学位は あなたを変えやしない
変えられるはずがない
実際には あなたの愚かしさは もっとひどくなる
いまやそれは学位をお持ちなのだ !
それは証明書を証しにすることができる
生を通じてでは 証しを立てられない
が,証明書でなら 証しを 立てられるのだ

ほかの どんな方法でも 立証することはできない
が,それは学位を,証明書を
社会からの承認を 持ってまわることだろう

みんなが あなたのことを 知 っ て い る 人 だ と思う
そしてあなたもまた 自分が知っていると 思う


これを 見たことがないだろうか ?
ごく物識りだと 思われているような人たちは
ほかの誰とも変わらないくらい無知だ
ときには もっと 無知だ

学問の世界に
知性的な人たちを 発見することは ごく稀なことだ
めったに ない
私は 学問の世界に いたことがある
そして,私はこれを 自分の経験から言っているのだ

私は 知性的な百姓なら 見たことがある
が,知性的な大学教授というのは 見たことがない
知性的な 樵夫(きこり)なら 見たことがある
が,知性的な大学教授というのは 見たことがない
なぜか ?
ああいう連中は どこがおかしくなっているのだろう ?


ひとつ おかしいところは
彼らが 知識に依存できる ということだ
彼らは 知者になる必要がない
彼らは 知識に頼ることができる
彼らは セコハンの道を 見つけているのだ
新 品 に は 勇気がいる
新品の〈知〉は ごく少数の 人たちにしか工面できない
冒険家
群衆が動いて行く あたり前の道を 乗り越える人たち
〈不可知〉の ジャングルの中へ続く小径を たどる人たち ーーー

危ないのは,迷子にもなりかねない ということだ
その危険は 大きい


セコハンの知識が得られると いうときに
なんで わざわざ手間をかける ?

ただ 自分の椅子に坐っていればいい
図書館や 大学に行けばこと足りる
そうやって 情報を集めればいいのだ
あなたは 大きな情報の山を築いて
その てっぺんに坐っていればいい
知識を通して
あなたの記憶量は どんどん大きくなる ーーー

が,あなたの知性は 大きくなりはしない
逆に あなたが あまりものを知らないと
あまり 物識りでないと
時に応じて 知性的にならざるを得ないこともあるだろう


こんな話を 聞いたことがある
ある女性が 缶詰めのフルーツを 買ってきた
ところが彼女はその缶を 開けることができなかった
彼女は その開け方が わからなかった
そこで彼女は 自分の書斎に駆け込むと 料理の本を 調べてみた

彼女が その本を見て ページを探し出し
開け方を調べて,いざ缶を開けようと馳せ戻るまでに
なんと女中が もうそれを開けてしまっていた

彼女は 尋ねた
「でも あなた どうやったの ? 」
その女中が 言うには
「奥さん
字が読めなかったら 頭を使わなくちゃね」

そう
それがことの次第だ
百姓や 庭師や樵夫たちが より知性的で
そのまわりに 一種のみずみずしさを 湛えているのは そのためだ
彼らは 字が読めない
そこで 彼らは 自分の頭を 使わなくてはならないのだ

人は 生きなければならず
自分の頭を 使わなくてはならない


三番目の意味は
“ 理解する ” という意味合いで 知 る ことだ


仏陀は 在 る そ の も の を 見て取った
彼は 在 る そ の も の を 理解する
そしてまさに その理解において
一切の束縛から 自由なのだ
それは どういう意味だろう ?




(05)終わり・・・(06)へ 続く