saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第8話 ーーー Q&A 最初の質問 (09)


ブッダ” というのは
“キリスト” が意味するのと まったく同じものを意味する

エスの名前は キリストじゃない
それは彼に起こったところの 究極の開花なのだ

仏陀も またしかり
世の中には ゴータマ・シッダルタ以外にも 大勢のブッダたちがいた
誰もが “ブッドゥ” の 能力を 備えている
“ ブッドゥ ” すなわち ものを 見抜く能力は
ちょうど 種のように あなたの中にも ある

もしそれが 芽を 出したならば
大樹となって花咲き,青空のなかで 踊りはじめたならば
星々に ささやきはじめたならば
あなたは ひとりの ブッダなのだ


仏陀の道は 知性の道だ
それは感情的な道じゃない
いいや
全然 違う
ただし,感情的な人たちが たどり着けない というのじゃない
彼らには 別な道がある
献身の道
バクティ・ヨーガ (bhakti yoga) ーーー

仏陀の道は 純粋な ジュニャーナ・ヨーガ (jnana yoga)
知ること の 道だ
仏陀の道は 瞑想の道だ
愛の道じゃない


そして ちょうど “ブッドゥ” と同じように
“ ジュニャーナム (jnanam) ” の 基盤には “ ジュニャー(jna) ” という語源がある

ジュニャーナムというのは 認識,知を意味する
それは “知恵” を意味する プラジュニャー(prajna 般若)の 語源でもある

プラジュニャー・パーラミター(prajna-paramita 般若波羅蜜多)
彼方の知恵 ーーー

あるいは 知覚,感受性を意味する サンジュニャー (sanjna)
あるいは 意識を意味する ヴィジュニャーナム (vijnanam)
これらの言葉も “ジュニャー” から 来ている

“ジュニャー” とは 知ること を 意味するのだ
これらの言葉が
この経典の中では 数えきれないほど くり返されていることが わかるだろう

この経典ばかりじゃない
仏陀の 経典すべてだ
もう 二 三 ,ごくひんぱんに くり返される言葉がある
それらの 言葉は・・・

知ることを 意味する “ヴィッド (vid)”
“ ヴィッド ” から ヒンドゥー教の “ヴェーダ (veda)” という言葉が 出てくる
あるいはまた 心(マインド)を意味する “ マン (man) ”
心する という意味の “ マナン (manan) ”

あるいは意識を意味する “ チット (chit) ”
またしても意識を意味する “ チャイタニヤ (chaitanya) ”ーーー


これらの言葉は
仏陀の道の上では ほとんど敷石のような 役目を果たしている
彼の道は 知性の道なのだ


心にとめておかれるべき もうひとつのこと ーーー
この経典は なるほど
はるかに知力を越えたところにある何かを 指し示してはいる
けれども そこに至る道は
この経典に関する限り 知性に沿っているのだ


知力は 使われるべきものであって 捨てられるべきものではない
超越されるべきものであって 捨てられるべきものじゃない
そして それは
あなたが 梯子の最上段に達して はじめて超越され得るものだ
あなたは 知性の中へと成長し続けなければならない
そうしたとき
知性が そのなし得る すべてを終えてしまう瞬間が来る
その瞬間になったら
知性に さよならを 言うがいい

それは 長い間 あなたに手を貸してくれた
充分 遠くまで あなたを連れて来てくれた

それは よき乗り物だった
それは 川を渡る船だったのだ
向こう岸に 着いたら
あなたは 船をあとにする

船を 背負って歩いたりはしない
それでは 馬鹿みたいだ


仏陀の道は 知性を 通って行く
が,それを 超えて行く
ある瞬間
知性があなたに その与え得るすべてを 与え終わるときが来る
そうしたら,それはもう 必要ない



(09)終わり・・・(10)へ 続く