saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第8話 ーーー Q&A 最初の質問 (04)

…( あなたは神を 信じるように育てられてきた
そしてあなたは それを信じ込んできた
それはひとつの〈信条〉に すぎない )

神が 存在するかどうかは
あなたの信条などと 何の関係もない
〈真実〉は あなたの信条などと 何の関係もないのだ !

あなたが 信じるかどうかなど
真実にとっては 何の変わりもない
だが,もしあなたが 神を信じた としたら
あなたは 神を見続ける
少なくとも 自分は神を見ている と 思い続けることだろう

もしあなたが 神を信じなければ
神に対する その不信が
逆に あなたの 知 る こと を 妨げるだろう
あらゆる 信条というのは 妨げになる
なぜならば
それらは あなたのまわりに 先入観として 固まってしまうからだ
それらが 思考という被覆に なってしまう
仏陀が “ アヴァラナ (avarana) ” と 呼ぶもの ーーー

知性の人 というのは ただただ
それがいかにあれ 実 情 を 認識しようと 開いている

もし神が そこにいれば
彼は それ を 認識するだろう
だがそれは 彼の 信条によるのじゃない
彼は 何も信条など 持ってはいない

ただ,物事を 信じ込むことのない 知性の中にのみ
〈真実〉は 現われ得る

もうすでに 何か 信じ込んでいるとしたら
あなたは
真実が あなたのところにやって来る どんな空間(スペース)も 許さない
あなたの先入観が 玉座に着いている
もうすでに 玉座に着いてしまっている

何か 自分の信条と 反することがあっても
あなたは それを見ることができない
あなたは こわくなるだろう
あなたは 動揺してしまうだろう
あなたは 身震いしはじめるだろう

あなたは 自分の信条に たいそうつぎ込んでいる

大変な命
大変な時間
数知れない祈り
毎日 5回の お祈り ーーー

50年というものを
ひとりの人間が 彼の信条に捧げてきた
さて,どうして その彼が
突如として,神などいない という事実を認識することができよう ?

また ある人は,彼の一生を 共産主義に入れあげて
神などいない ということを 信じ込んでいる
どうして その彼が
神が いるかどうか 見るに至ることができよう ?

彼は それを 回避し続けるに違いない


私は 神がいるかどうかなど 何ひとつ言ってはいない
私が言っているのは あなたに関する何か であって
神のことじゃない
ひとつの 心(マインド)

ひとつの クリアーな 心 (マインド) が 必要だ

どんな信条にも しがみつかない 知性が必要だ

そうなれば あなたは 一枚の鏡のようになる

あなたは 在 る そ の も の (that which is)を 映し出す
あなたは それを 歪めない

それが “ブッドゥ” の 二番目の意味だ

知性的な人 というのは
共産主義者でもなければ カトリックでもない
知性的な人 というのは
信じもしなければ 信じないということもない

彼は 生を のぞき込む
そして,何であれ そこにあるもの
彼は それを 見る用意がある
彼には その視界を 遮るものがない
彼の 視界(ヴィジョン)は 透明だ
このような 数少ない人々だけが 真実に到達する


語源 “ブッドゥ” = 知性の 三番目の意味は
知る ということ,理解する ということだ


(04)終わり・・・(05)へ 続く