saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「究極の錬金術 2」by OSHO,


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最初の質問 (03)

 

愛の道を行く探求者は 言う。

「それは 美しい。 そして、愛の道の上の体験は そのために豊かなのだ」と。

そして、数学的統合は、豊かなものではない。

昂まりがなく、二つのものが消え去り 一つになる。

それは、二元対立がそのままで 一つになるよりも、神秘的ではない。

 

恋人たちは 言う。

「私たちは 二人のままです。

尚且つ、私たちは 二人ではありません」と。

彼らは 二元対立の中にあって、この不二元の立場を 取り続けている。

二人であることでの 一体性という立場を、取り続ける。

一体性が 根本だ。

表面的には、 愛されるものは 愛されるものであり、愛するものは愛するもので、そこには ギャップがある。

だが奥深くでは、ギャップは 消え去る。

愛は 存在への 詩的アプローチだ。

 

一方、マインドは 言う。

イギリスの科学者で、ノーベル賞 受賞者のディラックについての ある話を 思い出した。

ディラックの友達で −−− もう一人の科学者、ロシアの科学者 カピザは、ドフトエフスキーの小説の一つで 最高の賞賛を与えられている『罪と罰』を ディラックに与えた。

カピザは ディラックに 言った。

「この小説を読んでみてくれよ。 それで、感想を 聞かせてくれ」

ディラックは その本を カピザに返し、こう言った。

「すばらしかったよ。

でも、 この本には 一つ間違い、 誤りがある。

著者は、太陽が同じ日に 二度 昇ると言っている。

同じ日に、太陽が二度昇ると」

ドフトエフスキーは その物語のどこかで、同じ日に 太陽が二度昇るという 誤りを、小説の中で書いた。

ディラックは言った。

「それが ただ一つの エラーだ。

それ以上 何も言うことはないよ」

 

それが、彼が ドフトエフスキーの偉大な小説『罪と罰』について語った 唯一のことだった。

彼は 普通の人間ではない。

が、アプローチ、数学的アプローチは、詩人の それでも、 アーチストでも、 愛するものの それでも なかった。

それは 公正な観察者の アプローチだった。

数学的な アプローチだった。

彼は「一つ間違いがある。 太陽は一日に 二度 昇ることはできない」とだけ 言わなければならなかった。

偉大な作品である、『罪と罰』のようなすばらしい作品について、ディラックのマインドには そのことしか 響いてこなかった。

なぜ ? 

それは 公正な観察者、数学的な観察という マインドの 訓練のせいだ。

その 間違いを見つけた者は、誰ひとりいなかった。

彼は、その間違いを見つけた 初めての人間だった。

多くの人間が、ドフトエフスキーの小説には、深い洞察、心理的 深み、偉大な詩、すばらしいドラマがある と 感じた。

だが、誰も その間違いを見つけた者は いなかった。

それは あなたが どういう観点で世界を見るか次第だ。

 

愛する者は、違う目を 持っている。

愛する者が 究極の体験に至ると、すべては ひとつだと わかる。

が、彼は こう言う。

「もし その一体性が、ただ一つになること、ただの 一体性であれば、それは 死んでいる」

一体性とは、生き生きとしたものだ。

生きた、ダイナミックな 現象だ。

それは 二つのあいだを行き交う、絶えざる動きだ。

絶えざる統合であり、動きであり、生きたプロセスだ。

死んだ 統合ではない。

 

リアリティーは、まったく逆の観点から 見ることができる。

数学的マインド、観察者である マインド、

客体と距離を保つ マインド −−− 知の、 理解の道の ものだ −−− 

それは「二元対立が存在するか、一体性が存在するかの どちらかだ。 両方が存在することは あり得ない」と 言うだろう。

それが 論理的アプローチだ。

二つの 対立するものが あるのに、尚且つ、

一体性があると どうして言えるだろう ? 

その 二つが解消すれば、そこには 一体性がある。

それか、一体性のことは言わずに、

二つという 立場で話すかだ。

 

ディラックの言うことも、彼なりの あり方で正しい。

それは 彼の アプローチだ。

 

 

(03)終わり(04)へ 続く