saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第15章「観ること: 全ての技法の基礎」(16)

(16)

 

古い サンスクリットの文献には、師は死として定義されている −−− アチャリアムリテゥ。

師は、死として 定義されている ! 

 

カトゥウパニシャッドの中で、ナチケタはヤマ −−− 

死の神のところに 教えを受けるために、遣わされた。

そして、ヤマ −−− 死の神は、ナチケタを魅了する 非常に多くのものを 与えた −−− 

「これを持っていきなさい。 王国を持っていきなさい。

財宝を たくさん持っていきなさい。 馬をたくさん持っていきなさい。 象をたくさん持っていきなさい。

これも これも」と 贈り物の長いリストを見せた −−− 

すると、ナチケタは言った。

「私は 死とは何かを 学びに来たのです。

なぜなら、死を 知らない限り、生とは 何であるかを知ることができないからです」

 

師は、古き日には、弟子に対して 死になり得る者 −−− 死を 与えられる者、自分が 再び生まれることができるように 死ぬことを手助けできる者として 知られていた。

ニコデムスはイエスに聞いた。

「どうすれば、神の王国を手に入れられますか ? 」と。

すると イエスは「まず あなたが死なない限り、何ひとつ手に入れることはできない。

再び生まれない限り、何ひとつ手に入れることはできない」と。

そして 再び生まれる というのは、一つの出来事ではない。

それは 継続しているプロセスだ。

人は、瞬間ごとに 生まれ変わらねばならない。

人は 一度生まれ変われば、それでいいわけではない。

生とは、ずっと続く誕生だ。

そして、死も また然りだ。

 

あなたは 一度 死ななければならない。

あなたは まったく 生きていなかったからだ。

もしあなたが 生きているとすれば 毎瞬、死ななければならない。

過去が どうあれ、地獄であっても、天国であっても 過去に死になさい。

何であっても 過去に死ぬこと。

そして新鮮になり、若返って、瞬間の中に生まれ変わりなさい。

今、見るのだ ! 

もしあなたが新鮮なら、その瞬間、見ることしかできない。

 

この経文 曰く

『自身の観照の質を確立することが アクシャット −−− 礼拝に使われる研がれていない、割れていない米だ』

 

このウパニシャッドは 

礼拝の あらゆるシンボルに、深い意味を 与えている。

 

 

(16)終わり(17)へ 続く