saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第13章「在ることを通して越えていく」(20)


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(20)

( もし それを知れば、もしその 聖なる芳香の内に、その至福の内に生きるなら、それが道だ )

が、どうして賢者たちは、あらゆる所に “それ” を 感得することが 唯一の芳香だ と 言ったのだろう ? 

 

あなたは 礼拝に行くとき、幾らかの花を一緒に 持って行く。

それは 象徴的な 表現だ。

ありきたりの花は 礼拝のためのものではない。

 

 “それ” は あらゆる所にある という感覚 −−− 

それを 一緒に 持って行くのだ。

そうして初めて、その礼拝が 本物になる。

でなければ、ただの インチキな見世物だ。

ありきたりの花では 役に 立たない。

礼拝に行くときは、その香りを あなたと一緒に持っていく。

だが その時は、礼拝に行くところが ないだろう。

寺院 というものは なくなり、 全てが 寺院となるからだ。

 

もしあなたが あらゆる所に “それ” を 感得するなら 

どこが 寺院だと 言うのか ? 

どこが メッカで、どこが カーシーと 言うのか ? 

 

彼は 至る所にいる、全存在が ひとつの寺院に なる。

もしあなたが “それ” を あらゆる所に感得するなら “これ” が  寺院になる。

だから、その香りを 自分のうちに携えていくこと。

 

だが実際、リシたちの洞察は、たとえ 彼らの象徴表現としても、実に 深遠な ものだ。

彼らは「花」とは 言わず、「芳香」と言う −−− 

なぜなら、花もまた “これ” の香り、“それ” の 一部だからだ。

 

花は 生まれ、そして死ぬ。 が、香りは永遠だ。

あなたは それを知っているかもしれないし 知らないかもしれない。

花は物質的な 表現であり、香りは霊的な部分の 表現だ。

花は あなたの 手で持てるが、香りは 手に持てない。

花は 買えても、香りは 決して買えない。

花には限界が あっても、香りには 単純に限界が ない。

花は どこにでも 存在するが、香りは どこにでも行ける。

あなたは「香りは ここにある」とは 言えない。

それは 至る所に ある。 それは どんどん広がっていく。

ゆえに、賢者は「花」と言わずに「香り」と 言った。

 

その香りを あなたとともに 持ち運びなさい。

そうして はじめて、本当の寺院に 入れる −−− 

寺院の リアリティーは 表面に現れている寺院ではなく、あなた次第だ からだ。

もしあなたが 本物であれば、寺院は 本物となる。

そうすれば、どんな寺院であろうと 

どんな場所であろうと、寺院に なる。

そこに 違いは ない。

 

 

 

(20)終わり(21)へ 続く