saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第1話ーーー七段の梯子 (03)

世界は幻で,魂は実在する
“ 私 ” は真実で,ほかのすべてはマーヤ(幻)だと言う先生方はたくさんいた
仏陀は正反対のことを言う
彼は,ただ “私” だけが真実ではなく
ほかのすべては本物(リアル)だと言う
そして,私もほかの観点よりは仏陀の方に同感だ
仏陀の洞察は実に透徹している
最も鋭いと言っていい
誰ひとりとして,あれほどの領域まで
現実(リアリティー)のあれほどの深みや高みまで射抜いた者はいない
が,とりあえずこの観点から
あなたのまわりにこの風土を醸しだすこと
このヴィジョンを据えることから出発するがいい
体の細胞のひとつひとつにまで
あなたの心の思いのひとつひとつまで
それを宣言するのだ
あなたの存在の隅から隅まで
それを言明しておくのだ
“ 自分はブッダなのだ ! ” と ーー
そして,その “自分” のことは心配しなくていい
それはわれわれが面倒みよう


“自分” とブッダフッドとは共存できないものだ
ひとたびブッダフッドが明かされたなら
“自分” というのは
ちょうど明かりを持ち込むと暗闇が消えるように消え失せる


経文にはいる前に,ちょっとした下ごしらえ
ちょっとした骨組みをしておくと理解の役に立つだろう


古い仏教経典は七つの寺院について語っている
ちょうどスーフィ教が七つの谷のことを語り
ヒンドゥー教が七つのチャクラについて語るのと同じように
仏教は七つの寺院について語る


第一の寺院は肉体 (physical) の寺院だ
第二の寺院は精神身体 (phycho−somatic) の寺院
第三の寺院は心理 (psychological) の
第四の寺院は精神霊性 (psycho−spiritual) の
第五の寺院は霊性 (spiritual) の
第六の寺院は霊性超越 (spiritual−transcendental) の
そして第七の,そして究極の寺院
寺院の中の寺院は超越 (transcendental) の寺院だ


これらの経文は第七に属する
これらは,誰か第七の寺院
超越的な,絶対的なところにはいり込んだ者の宣言なのだ
それがサンスクリット語のプラジュニャーパーラミター
(prajna−paramita) の意味するものだ
彼方(かなた)の
彼方(かなた)からの
彼方(かなた)における知恵
高いものも低いものも
この世的なものもあの世的なものも
あらゆる種類の自己同化(identification)をすべて超越したときにはじめて来るところの知恵
ありとあらゆる自己同化を超越し
まったく何ものにも同化されず
ただ覚醒の純粋な炎だけが煙も立てずに残されたときに来るものーー
仏教徒たちがこの小さな
掌におさまるような経典を崇拝するのはそのためだ
そして,彼らはそれを “ 心経(The Heart Sutra) ” と呼んできた
まさに宗教のハートそのもの
まさにその核心ーー


第一の肉体の寺院は
ヒンドゥー教の図解で言うムラダーラ ‐ チャクラに相当する
第二の精神身体の寺院は,スワディスターナ ‐ チャクラに
第三の心理の寺院はマニピュラに
第四の精神霊性の寺院はアナハタ
第五,霊性の寺院はヴィシュダ
第六,霊性超越の寺院はアジュナ
そして第七の超越の寺院はサハスラーラに相当すると言える
“ サハスラーラ ” というのは
一千枚の花弁を持ったハスの花を意味する
それは究極の開花のシンボルなのだ
何ひとつ隠されてはいない
一切が露(あら)わになっている
顕現している
一千枚の花びらを持ったハスの花が開いた
空全体がその芳香で
その美しさで
その祝福で一杯だ



(04)へ続く