saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第1話ーーー七段の梯子 (04)

現代の世界において
人間存在の内奥無比なる中核を探るひとつの偉大な仕事がはじまっている
その現代の努力が
われわれをどこまで導いてゆくかを理解しておくのは悪いことではなかろう


パヴロフ,スキナー その他の行動主義者たちは
肉体的なところ,ムラダーラのまわりをまわり続けている
彼らは人間は肉体にしかすぎないと考える
彼らはあまりにも第一の寺院にとらわれすぎている
あまりにも肉体的なものにとらわれすぎて
ほかのすべてを忘れ去ってしまうのだ
こういう人たちは,人間を
肉体的なもの,物質的なものを通してのみ説明しようとしている
この態度はひとつの障害になる
なぜならば,彼らはオープンじゃないからだ

一番最初から肉体のほかには何もないと決めつけてしまったら
〈探検〉そのものを否定していることになる
これはひとつの偏見だ
共産主義者マルクス主義者,行動主義者,無神論
人間は肉体でしかないと信じ込んでいる人たちーー
彼らのまさにその信念そのものが
より高次のリアリティーへの扉を閉ざしてしまう
彼らは盲になる


確かに肉体的なものというのはそこにある
肉体的なものというのは最も明白だ
それは何の証明も必要としない
肉体的な身体はそこにある
それを証明する必要はない
それが証明を必要としないがためにそれが唯一の現実(リアリティー)になるーー
としたらそれはナンセンスだ
そうなったら,人間は一切の尊厳を失ってしまう
もし,その中で成長すべき何ものもなく
それに向かって成長してゆくべき何ものもないとしたら
生には何の尊厳もあり得ない
そうしたら,人間は “ 物 ” と化す
そうしたら,あなたにはこれ以上もう何も起こらない
あなたは肉体だーー
あなたは食べるだろう
そして,あなたは排泄するだろう
ん? あなたは食べ,愛を交わし,子供をつくり
これが果てしもなく続いていって
そしてある日,あなたは死ぬ
世俗の,つまらないことの機械的なくり返しーー
どうしてそこに意義が,意味が,詩があり得よう ?
どうしてそこにダンスがあり得よう ?


スキナーは『自由と尊厳を超えて (Beyond Freedom and Dign-ity) 』という本を書いた
しかし,それは『自由と尊厳の 手 前 で 』と呼ばれるべきだ
超 え て じゃない
それは 手 前 だ
それは人間に関する最も低い観点なのだ
最も醜いーー
別に肉体が悪いと言うわけじゃないよ
覚えておきなさい
私は肉体に反対しているんじゃない
それはビューティフルな寺院だ
醜さは,あなたがそれをすべてだと考えたときにはいってくるーー


人間は七つの段を持った梯子と見なすことができる
ところが,あなたは第一段目に同化してしまう
そうしたら,どこにも行けるわけがない
梯子はちゃんとあるのに‐‐‐‐‐‐
そして,その梯子はこの世とあの世を橋渡ししている
その梯子は物質と神とを橋渡ししているのだ
第一段は,もしそれがその梯子全体との関連において使われるならまったく問題ない
第一歩として使われるなら,それは大いにビューティフルだ
人は肉体に感謝すべきだ
だが,もしその第一段を崇拝しだして残りの六つを忘れ
梯子全体の存在を忘れて,自分を閉ざし
第一段に限定してしまったら
もうそれは全然梯子じゃなくなってしまう
なぜならば
段が段なのは,それが次の段につながるときに限るからだ
段が段なのは それが梯子の一部であるときに限る
もし,それが段でなくなったら
あなたはそこでつっかえてしまう
だから,物質的な人たちというのはいつもつっかえているのだ
彼らはつねに,何かが欠けていると感じている
彼らは自分がちゃんとどこかに向かっているとは思えない
彼らは堂々めぐりをして
何度も何度も同じところに帰って来る
彼らは疲れて退屈してしまう
彼らはどうやって自殺しようかと考えあぐねだす
そして,人生における彼らの全努力はといえば
何でもいい,とにかく何か新しいことが起こり得るような興奮を見つけることなのだ
だが,どんな “新しい” ことが起こり得る ?
われわれが夢中になり続けている一切のものは
手なぐさみの玩具以外の何ものでもない


フランク ‐ シードのこの言葉は一考に値する
「人間の魂は目的や意味を求めて叫んでいる。 そして,科学者たちは言う。『ほら,電話だ』,いや『ほら,テレビだ !』
これはまるで母親を求めて泣いている赤ん坊を,あめん棒やおかしな顔であやすのと同じことだ。 すさまじい発明発見の激流は,人間を夢中にさせ,自分を悩ませていることを忘れさせておく大役を果たしてきた。」


現代の世界があなた方に与えてくれた一切は
あめん棒,手すさびの玩具以外の何ものでもない
そして,あなたは〈母〉を求めて泣いていたのだった
〈愛〉を求めて泣いていたのだった
〈意識〉を求めて泣いていたのだった
人生に何らかの意味を求めて泣いていたのだった
なのに,みんなはこう言う
「ほら ! 電話だよ !
ほら ! テレビだよ !
ほら ! こんなに一杯素敵なものを持って来てあげたよ ! 」
それで,あなたはしばらく遊ぶ
また,飽きる
また,退屈してしまう
すると,また彼らは新しい手すさびの玩具を探しに行く


こんなのはどうかしている
あまりにも馬鹿らしくて
どうしてそんな中で生きていられるのか信じられないくらいだ
われわれは第一段でつっかえているのだ


覚えておきなさい
あなたは肉体の中にいる
が,あなたは 肉体じゃない
それについては自分の中で絶えず醒めているがいい
あなたは肉体の中に住んでいる
そして,肉体というのはビューティフルな住み家だ
覚えておきなさい
一瞬たりとも私は
いわゆる精神主義者たちが時代を問わずやり続けてきたように
アンチ肉体になれだの,肉体を否定しはじめろだのということをほのめかしているつもりはない
物質主義者たちは肉体がすべてだと思っているし
かたや,反対の極端に走って
「肉体は架空のものだ
肉体などというものはない !
幻想が崩れるように肉体を壊せ
そうすれば,あなたは本当に本物(リアル)になれる」と言いだす人たちもいる


この反対の極端は一種の反動にすぎない
物質主義者それ自体が精神主義者という反動を生む
だが,彼らは同じ商売の相棒どうしだ
彼らはそんなに違う人種じゃない

肉体はビューティフルだ
肉体は本物(リアル)だ
肉体は生きられねばならない
肉体は愛されねばならない
肉体というのは神からの大いなる贈り物だ
一瞬たりともそれに反対したりしないこと
そして,一瞬たりとも自分がただそれだけだなどと思わないこと
あなたはそれよりもはるかに大きい
肉体はジャンプ台として使うがいい


第二番目は,精神身体の寺院 = スワディスターナだ



(05)へ続く