saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

The Art of Dying 第五章 「所有と実存」(02)

f:id:saleem:20220227103332j:plain

人間精神は、近道を捜せると考える。


あなたたちは皆、ある種の夢に 覚えがあるだろう。
夢の中で、電車で 旅をしているのであれば、多くの駅を 飛び越せる。
ロンドンにいると思ったら、突然 東京にいる。
あなたは すべてを飛び越す。
無意識は つねに近道を望む。
夢なら可能だが、現実の生では不可能だ。
いかなる旅程も 途中の駅も、飛ばすことはできない。
どんなに速く行っても、何一つ 飛ばせるものはない。
速かろうが遅かろうが、結局 何の違いもありはしない。
すべての道を行かねばならないし、困難な道を行かねばならない。

LSDや 薬物は、つねに人間を誘惑してきた。
それは 新しいことではない。
人間自身と同じほどに古い。
ヴェーダの時代では、ソーマを使っていた。
インドでは、幾世紀にも亘り薬物が使われ続けてきた。
チャラス、マリファナ、アヘン、何でもありだ。
今や 狂気は、世界中に広まった。
今や 人々は、所有することができる、呑み込むことすらできる。
極めて安直で安っぽい近道を探そうとしている。

サマーディは 呑み込めない。
神は 化学的な現象ではない。
苦労して 手に入れなければならない。
苦労して はじめて、あなたのものになり得る。


さて、ほかにも方法がある。
近道は薬物だけではない、他のものもある。
極めて少ない努力、事実上 何の努力も要せずにゴールに到達できると、ある人々は 口を揃えて保証する。
例えば、毎日 数分 マントラを唱えるだけ という方法だ。
マントラを唱えて できるのは、マインドを鈍くすることだけだ。
あらゆる繰り返しは、マインドを鈍く、人を鈍感、無感覚にする。
ひたすら マントラを唱え続けていれば、感覚が麻痺し、退屈になり、意識が まどろむ。
より無意識になり、眠りに落ちだす。

母親は、子供が落ち着かず 眠れずにいるときには、子守唄を歌わねばならないことを つねに心得ている。
子守唄は マントラだ。
母親が 何度も何度も 同じことを繰り返すと、子供は 退屈する。
絶え間なく 繰り返されると、場は 単調になる。
子供には 逃げ場がない ーー 母親がベッドの脇に腰を下ろし 子守唄を繰り返し歌っている。
子供は逃げられない、「黙れ」とも言えず 聞かなければならない。
眠る以外、逃げ道はない。
そこで子供は、子守唄と母親から逃れるため眠ろうとする。

マントラは 同じように作用する。
ある言葉を繰り返し、自分で 単調な状況を作りだす。
単調であることは常に、無感覚であるということだ。
単調であれば必ず 人は鈍くなり、鋭さが破壊される。

そのことは 様々な方法で試みられてきた。
世界中の 古い僧院、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒仏教徒の あらゆる僧院で、同じ詐術が 大規模な形で 試みられてきた。
僧院の生活は お決まりで、完全に固定されている。
毎朝 三時とか五時に起き、それから同じ日課が始まる。
同じ行為を 一日中、一生 し続けなければならない。
決まりきった生活をして、マントラを 生全体に 余すところなく押し広げる。

同じ事を 何度もしていると、やがて人は 夢遊病者のようになる。
起きていようが 寝ていようが 違いはない。
虚しいしぐさや 動作を続けるしかできず、寝ているときと 起きているときの区別が、まったく なくなる。


古い僧院に行けば、僧侶たちの 寝ながらに歩いている様が見られる。
僧侶たちは ロボットになっている。
朝 起きるときと 眠りにつくときの区別がなく、その領域は 重なり合っている。
就寝と起床が、毎日まったく同じなのだ。
実を言えば monotonous (単調な) と monastery (僧院) は 語源が同じで、二つとも同じものを意味している。

知性のいらない、そうした単調な生を 造りだすこともできる。
知性がいらないと 人は鈍くなる。
鈍くなれば当然、ある種の平穏と 沈黙を感じだす。
だが、本物ではない、偽物だ。
本当の沈黙は、とても生き生きとし脈打っている。
本当の沈黙は、活動的で エネルギーがある。
知的で、覚めている。
生や 沸き立つ喜びに溢れている。
そこには 情熱がある。

偽りの沈黙、見せかけの沈黙は、ただ鈍感であるに過ぎない。
観察することも可能だ。
愚かな人間、白痴や 魯鈍が そこに座っていれば、ある種の沈黙が 周囲に感じられる。
墓場の近くで感じるのと同じ沈黙だ。
愚かな人間の周りには、非常に沈滞した空間がある。
世間には まったく関心がなく、世間との関わりも持たず、切り離されているように見える。
土くれみたいに そこに座っている。
周りには、いかなる生の振動も、いかなるエネルギーの振動もない。
流れているものもない。
これは 本当の沈滞ではない。
単に 愚かなだけだ。


仏陀に近寄れば 仏陀も静かだが、それは知性があるから、気づきがあるからだ。
静かなのは、沈黙を強いているからではなく、いかなる意味でも かき乱されるのは無意味である と悟ったから、悩んだり 緊張したりするのは 無意味であると 悟ったからだ。
その沈黙は 理解に、溢れるほどの理解に基づいている。
仏陀に近づけば まったく異なる香り、意識の香りがするだろう。

あなたは、仏陀を包む みずみずしさや そよ風だけでなく、自分が より生き生きとし 燃え上るのを感じるだろう。
彼に近づくだけで、あなたの実存に 火がつく、内にあるランプが燃えだす。
好意や親近感さえ抱いて 近づけば、さほど憂鬱でなくなっている自分を感じるだろう。
仏陀の臨在は、徹底して自分を築きあげてきた泥から あなたを引き上げる。
その 臨在自体が、上方へ牽引する力なのだ。
あなたは 生を、愛を、情熱を、美を、真実を感じるだろう。


マントラを唱え、決まりきった 単調な生活を続ける人は 死んでいる。
必要にかられて動作や 仕草をしているだけだ。
また、同じ事を 何度も何度もしているので、その行為に 注意を向ける必要もない。
寝ながらにしてやれる。
非常に熟練しているが、それは 単に機械的になっただけ ーー だからこそ静かなのだ。
超越瞑想を実践している人々に 出会えば、こういう沈黙に触れるだろう。
彼らは、特定のマントラを繰り返し 自分を鎮める、マインドを 静かにさせる。
けれども、これは値打ちがない。
こんな安直な方法で 本物は 掴めない。

全身全霊を傾けなければ、本物は 手に入らない。

だが、覚えておきなさい。
努力すれば本物が手に入る と言っているのではない。
そこには逆説がある。
あなたは 一生懸命、精一杯、情熱的にやらねばならない。
しかし それだけでは、事は起こらない。
恩寵によって 事は起こる。
それが ハシディズムの メッセージだ。

あなたは 一生懸命努力する。
そうしなければ 事が 起こらないのは確かだ。
起こるのは、一生懸命努力したときに限られる。
だが、それは 起こる条件を 整えるに 過ぎぬものであって、原因と結果のようなものではない。
水を 百度まで温めれば 必然的に蒸発する、 というようなものではない。
自然の 法則ではない。
引力の法則の世界とは 関わりがない。
それは 第二の法則、自然の法則とは まったく異なる 恩寵の法則だ。
あなたは努力し 百度に達する、それから そこで待つ。
心 踊らせ、期待し、はつらつと、幸せに、祝い、歌い、ダンスをしながら。
あなたは そこで、百度になって待つ。
それは 必要条件だ。
あなたは 百度に達しなければならない。
だが今度は、愛を抱いて、辛抱強く 待たねばならない。
然るべき時が やって来れば、あなたの努力や 待ちの作業も完結し、恩寵が降りて来る ーー
あるいは、恩寵が 昇って来る と言ってもいい。
どちらも 同じことを言い表している。
というのも、恩寵は 最奥の実存から やって来るからだ。
降りて来るように見えるのは、あなたが自分の 最奥の核を知らなかったからだ。
あたかも、どこか 上の方から 降りて来るように思える。
だが実際は、あなたの 内部から やって来る。
内部は 超越でもある。



(02)終わり・・・(03に 続く)