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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

The Art of Dying 第五章 「所有と実存」(01)

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「所有と実存」

ラビのヴィサカール・バエルが
オレシーニヤ村の老いた農夫に出会った
農夫は若い頃のバエルを知っていた

バエルが出世したことも知らずに
農夫は呼びかけた「バエル、どうしているんだね」

「あなたの方はどうですか」とラビが尋ねた

農夫は答えた、「元気にやっているよ」
「お前に教えておこう
努力して得られぬものを、得ることはできないのだ」

それ以来、 ラビのバエルは、人生の正しい行ないについて語るとき
いつも こう言い足した

「オレシーニャの老人は言った
『努力して得られぬものを、得ることはできない』と」



意識には 二つの次元がある。

一つは 所有、もう一つは 実存だ。
だから人間は、ニ種類にしか分けられない ーー もっともっと手に入れようと 懸命になっている人と、その不毛を理解し生を別の方向、実存の方へ振り向けた人。
別の方向へ 向かう人たちは、自分を知ろうとする。

所有の世界では、何かを持っている と信じられている。
だが、 そう信じているだけで、実は 何も持っていない。
あなたは ひとり手ぶらでやって来た、そして 手ぶらで帰っていく。

その あいだに起こる すべての出来事は、夢に等しい。
現実のように、それがそこにある間は 現実のように見える。
だが、いったん消えてしまえば、本当は 何も起こらなかったことがわかる。
夢のせいで、現実は 手つかずのままだ。
所有の世界は 夢の世界でしかない。

宗教的な人とは、その不毛のすべてに気づいた人のこと。
自分自身 以外に 所有できるものはない。
あなたが所有しているものは、あなた自身を除いて、すべて偽りのもの、幻想だ。

実のところ、あなたが所有しているものは、あなたがそれを 所有している以上に あなたを 所有する。
最後には、所有者が所有される。

あなたは 多くのもの、富や 権力や お金を 所有していると思っている。
だが、深部では、ほかならぬ そうしたものに あなたが所有され、籠に入れられ、鎖に繋がれ、閉じ込められているのだ。

金持ちを見てみるがいい。
彼らは富を 所有してはいない。
この世のどんな貧乏人にも劣らぬほど 貧乏だし、どんな乞食にも劣らぬほど 乞食のようだ。
実際、何であれ 金持ちの所有物が 彼らを所有している。
金持ちは所有物に 悩まされている。

だから、まず理解しなければならないのは、これらは二つの扉に関する事柄、すなわち 所有と実存に関する事柄だということ。
もし、所有という夢の中で 自分を失っているなら、 あなたは俗世間に いる。
ヒマラヤの洞窟に 座っていようが、それでも違いはない。
俗世間は そこにある。
なぜなら俗世間は、まさに所有しようとする欲望の中にあるからだ。
だが、所有したことのある人はいない。

ただひとつ、すでに 自分のものであるもの、あなた自身の自己、意識しか 所有できない。
けれども、その実存を手にするには 一生懸命 努力しなければならない。
簡単には 辿りつけない。
まず、自分自身を 所有の世界から引き離さなければならない。
それは 死に等しいものとなるだろう。
所有の世界で 自分を同一化してきたからだ。
あなたは、あなたの車、あなたの銀行預金だ。
この夢から醒めだすと、今までしてきた あらゆる同一化が 消え始め、あなたが消えていくように感じる。
一つの 同一化が消える、あなたの 一部が消える。あとには虚空が残る。

すべての同一化が消えると、あなただけが 残る。
生と同等の、死と同等の純粋な空間があるだけで、他には何もない。
それが あなたの実存だ。
唯一 その実存だけが 所有し得る。
実在は すでにそこにあるからだ。
すでにそこにあるものしか 手にすることはできない、それ以外のものを手にすることはできない。
すべての望みは、不毛なるものへの望み、欲求不満をもたらすに 過ぎない。


人々が宗教的になっても、普通は、所有の観点から考え続ける ーー 天国を所有しようとか 天国の喜びを所有しようとか。
だが やはり、所有の観点だ。
彼らの天国は、すべてを 手に入れようという欲望の 投影でしかない。
この世で 手に入れられなかったものを、次の生で 手に入れたいと願う。
しかし、それは 同じ望みだ。

本当の意味で 宗教的な人とは、欲望の不毛に 気づいた人、この世の ここであれ、あとの別の世であれ、所有などできない と 気づいた人のことだ。
自分自身しか 所有できない。
自分の 実存の主人にしかなれない。
もしあなたが、自分自身を手に入れようと していないなら・・・それは大変な仕事だ。
近道は ない。
ティモシー・レーリーは あると言うが、近道はない。
そこでは、LSD や 薬物など役に立たない。
とても安直で、ずるいやり方だ。
薬物による ごまかしだ。
あなたは 何の努力もせずに、最奥の実存の世界へ 入りたがる。
汗水を流さず 手に入れたがる。
誠実ではない。

マハヴィーラのような人は、懸命に努力して 自分自身を手に入れようとする。
バアル・シェムのような人は、懸命に努力して自分自身を手に入れようとする。
己の 全存在を 捧げる。
全存在が、聖なるものへの祈り、帰依、捧げものとなる。
その人は そこにいない、自分のすべてを 余すところなく差し出す。
そうすれば 手に入る。
あるいは、かビールや ツァラトゥストラのような人・・・皆 困難な道を歩む。
困難な道こそ 唯一の道、近道はない。

しかし 人はいつも、近道を発明しようと 色んなことを試みる。
薬物による 幻覚体験は、人間精神の狡猾さが生み出した 最新の発明だ。
錠剤を飲むか 薬を注射するだけで、仏陀になれる、実存を丸ごと掴めると あなたは考える。
だが、 実存の主人ではなく 薬物の奴隷になるに過ぎない。
今度は、薬物への より大きな渇望が 何度も起こってくる。
より多くの量が必要になってくる。
そのうち あなたは衰弱し、ぼろぼろになるだろう。
美しく 真実であるもの、聖なるものの すべてに見放されるだろう。
だが、 誘惑はそこにある。
人間精神は、近道を捜せると考える。




(01)終わり・・・(02)ヘ 続く