saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

The Art of Dying 第五章 「所有と実存」(05)

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身体の言語、身振りの言語 ーー 言葉の裏にある言葉を 聴きなさい。
その意味を 聴き取りなさい。

まず、他人の 身体の言語に対して 注意深くなること。
あなたに近づいて来る人を、すべて 意識の実験材料にする、そうすれば、やがて自分も 観察できるようになるだろう。
それから、生の流れ全体を自分に向け、自分に対しても同じことをする。

あなたが誰かに「愛しています」と言ったら、言葉ではなく 本当に言っていることを聴き取るようにする。
言葉は ほとんど常に偽物だ。

言葉は非常に厄介だ。
物事をとても美しく装うことができるため、入れ物だけが際立ち、中身が見えなくなる。
人々は、うわべだけに限れば 非常に洗練されてきた。
だが、内奥の中核は 相変わらず野蛮だと言っていい。
周辺ではなく、中心に耳を向けなさい。
一つ 一つの言葉の中に入っていきなさい。

まず、他人の観察。
それから自分自身の観察だ。
そうすれば、やがて実存の次元に入っていく瞬間が、多少とはいえ あなたにもあることがわかるだろう。
これが美の瞬間、幸福の瞬間だ。
実を言えば、とても幸せに感じている自分を見ているときは、つねに実存の次元に触れているのだ。
なぜなら、それ以外の幸福など あり得ないからだ。

しかし、正しく観察しないと 誤解してしまうかもしれない。
あなたは愛する女性、愛する男性、友人と座っている。
そして突然、何の理由も はっきりした原因もなく、強い幸福感、強い喜びが こみ上げて来る。
あなたはまさに 輝いている。
それから、あなたは 外部に原因を探しだす。
多分、隣に女性が座っていて 強く愛してくれるからだと考える。
あるいは何年も会っていなかった友人に会ったから、満月が とても美しいからだ、 と。あなたは原因を探しだす。

しかし、自分の心、本当の意味に注意して 耳を傾けるようになった人は、外部に原因を探すようなことはしない。
そういう人は 内側を観る。
彼らは 己の実存に出会った。
おそらく、あなたの愛する女性は 心的刺激、ジャンプ台として働き、その結果 あなたがあなた自身の中に飛び込んだのだ。

外部に反目し合うものがあるときは、自分の中に飛び込んでいくことが難しい。
その場合、外にいなければならない。
誰かに愛されているときは、あらゆる防衛手段が 捨てられる、あらゆる策略、政治的やり取り、駆け引きが 捨てられる。

誰かに愛されているときは、無防備でいられる。
あなたは確信できる ーー あなたを愛する男性や女性に利用されることはない と、虐待されたり殺されたりしないから、無防備でいられると。
友人に害されることはない、友人がいると気持ちが和む、無防備でいられると。
無防備でいられる、策略や鎧を捨てられる状況のあるところ、必ずや 実存との突然の触れ合いがある。
あなたは、所有の次元から 実存の次元に移動した。
それが起こるたび、幸福、喜び、歓喜が生まれる。

たとえそれが 一秒の何分の一でも、忽然として天国の扉が開く。
だが、 そのことに 気づかないため、あなたは 何度も見逃してしまう。

それは 偶然にしか起こらない。
覚えておきなさい、宗教的な人とは この偶然の出来事を理解した人、その最奥にある鍵について 理解した人のことだ。
もう その人は、偶然だけに頼って 実存の次元に入っていくことはない。
鍵を持っている、いきたいときには いつでも扉を開ける。
扉を開けて入っていく。

これが唯一の違いだ。
普通の幸福と 宗教的な人のそれとの 唯一の違いは、宗教的な人は いつでもどこでも、己の実存の中に入っていけるということ、これだけだ。
今や、直通の道を知った。
ゆえに、外部のものを 縁 (よすが)とはしない。


あなたは 外部のものに頼り過ぎている。


(05)終わり・・・(06)へ 続く