saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第八章 残るのは知るものだけ 第三の質問 (02)

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…だが、それには限界がある。
夜に夢を見ようと 昼に再現しようと、それが夢であることをいつも覚えておくように。
また、無意識下、あるいは無意識を超えたところには、もう一つの開けられるべき実存の扉がある。


フロイトフロイト派の学者は、人間は 意識と無意識で終わりと考えた。
人間は、意識と無意識だけではない。
超意識の部分もある。
そちらの方が より真実に近い。

だから、意識がマインドに限られる と考えてはいけない。
フロイト以前は、意識がマインドに限られる と考えていた。
フロイトが 無意識の概念を 初めて導入したとき、嘲笑され、笑い者にされた。
人々は 言った、「ばかばかしい !
マインドが無意識であるはずがない。
マインドとは 意識のことだ。
それが無意識ならマインドではないし、マインドなら それは意識だ」と。
論理的には正しかった。
もちろん、文法も言葉も 正しかった。
だが、実存的には間違っていた。
フロイトは やがて勝利した。
真理は常に 勝利する。

今や、もう一つの層が 心理学の世界に導入されなければならない。
超意識だ。
心理学者たちは またそれに反対するだろう。
「ばかなことを言うものだ。
あなたは心理学に 宗教を 持ち込もうとしている。
われわれが 何とか宗教を取り除いたというのに、今あなたは、裏口から再び宗教を持ち込んでいるのですよ !」と 言うだろう。
だが、宗教は取り除けない。
遇有的なものではなく、きわめて本質的なものだからだ。
宗教は 認められなければならないし、その主張も 認められなければならない。

人間は意識であり、無意識であり、超意識だ。
人間とは その三つが一体になったものであり、それがキリスト教ユダヤ教の古典的観念、三位一体の意味だ。
東洋には トゥリムルティ ーー 神の三つの顔、実在の三つの顔 ーー という観念がある。
人間は 三つだ。
第三のものを 忘れてはならない。


質問者は尋ねている、「起きているときに行う 自分に対するごまかしや 偽りによって、心がとても曇ってしまった人、その人たちには、目が覚めたときに夢を思い出し、再現し、体験するという方法は、有益なのでしょうか」。
そう、有益な方法だ。
ただし 限界がある。
また、思い出す方より、再現の方が 重要だ。

「より高い意識や 真実にいたる第一歩と なり得るのでしょうか」。
もちろん なり得る。
だが、第一歩に 過ぎない。
第一歩で 終わってはいけない。
第一歩で終わってしまい、次の段階に行かない人が 大勢いる。
その場合、第一歩は 無意味になる。
二番目が始まらなければ、最初のものも 意味はない。
第二があって、はじめて第一が 意味を持つ。
第三があって、はじめて第二が意味を持つ。
目的地に達したときのみ、あなたの旅は 意味を持つ。
達しなければ、旅は 無意味であり続ける。
意味あるものは 超越的だ。


だから、まず夢を 再現してみることだ。
それは 役に立つだろう、あなたを もっと注意深くするだろう。
それから、夢の中でも、再現している間でも、起きているときでも、普通の 覚めた状態で 道を歩いているときでも、登場人物としてではなく、目撃者、観察者として 自分を見るようにすることだ。
観察者、見張り人、見物人、目撃者でいることは、あなたを現実へ導く 真の階段だ。
それは 夢を 超えている。

夢のマインドに対する 束縛を緩めるうえで、それらは 役に立つ。
だが、真の階段となるのは、あなたが観察を 始めたときに限られる。
一日中 やってみなさい。
何をしているときでも、自分が 観察者だ ということを覚えておきなさい。
歩いているときには、体が 歩いているのだと。
あなたは 観察者だ。
食べているときには、体が 食べているのだと。
あなたは 目撃者だ。
一日中 それができるようになったら、ある日 突然、夢の中でも、観察者が小さな可能性を持つものであると わかるだろう。
夢の中でも、「私は観察者だ」と 覚えていられるとき、夢は 消える。
それから、夢の 消滅とともに、新たな意識が 生まれる。
その意識を、私は 超意識と呼ぶ。
そして その意識こそ、覚者の心理学の ゴールなのだ。



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