saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「そのままにしておきなさい」 (第五の質問)(02)

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宗教は 極めて勇気のある人々、本当に向こう見ずな人々だけのものだ。
臆病者には 相応しくない。


二つ 三つ 小話を ーー。

酒好きではあるが、学があり読書家でもある 年配の男が、田舎町の裁判所の法廷に 出頭を命じられた。
「飲酒 及び 治安乱罪」、「この裁決に対する異議申し立てはありますか」と判事が 語気鋭く言い放った。

囚人は 雄弁に語り出した、「人間の冷酷さは、無数の悲しみを生むもんだ。
私は ポーほど卑しくはないし、バイロンほど 放蕩でもない。
キーツほど 恩知らずでも、バーンズほど不摂生でも、テニソンほど臆病でも、シェークスピアほど 低俗でも・・・」

「もういい」、判事が口を挟んだ。
「禁固九十日」、「それから、執行吏、今被告が言った名前を書き留めて、彼らも 検挙しなさい。 被告と同等の悪党だ 」。


さて、判事は 第一の愚か者で、被告は 第二の愚か者だ。
地上に住む人間のほとんどは、この二つの タイプだ。
第三のタイプ、イエス仏陀は稀にしか現れない。

愚か者を表す インドの言葉は buddhu (ブドゥー) だが、 それは仏陀に由来している。
仏陀が 王国を捨て、非常に多くの人々が従い始めたとき、国中が 騒然となった。
人々は、「ブドゥーになってはいけない、愚か者になってはいけない、この男に ついていってはいけない」と 言いだした。
人々は仏陀についていく者を ブドゥーと言うようになった。
あの男はブドゥーだ、愚か者だ、王国を捨てたのだから。

王国を捨てる者など他にいるだろうか。
人は 王国にあこがれ、望み、夢見る。
だが、仏陀は捨てた。
愚か者に違いない。


第三のタイプは極めて稀だ。
だが、それは 起こる。
充分な勇気があれば、あなたは跳躍し得る。



次の話。

誰かが 私に、あの人はできる限りのことをした と 言う。
しかし、私が それを不充分と判断したとき、私は その人のことを、自動車を止め、違反の切符を切った 白バイの警官と同じ扱いにする。
「おまわりさん、スピード違反なんかしてませんよ。
制限速度は五十マイルでしょ、四十マイルしか出していないんだから」、 とドライバーが 腹立たしく抗議した。
「知ってるよ。 しかし、本当にスピードを出している奴には 追いつけないからね」、 と 弁解するように白バイの警官が言った。


第三の愚か者は とても速い。
天使が 恐れをなして歩けないところも、平気で歩く。
とても 速い。
だから私は、その跳躍を量子的跳躍と呼ぶ。
第三の愚か者は 勇気とエネルギーそのものから飛び出てくる。

第二の愚か者にそれほどの勇気はない。
第二の愚か者は、あちこちから こまごまとしたものを集め続ける。
それほどの勇気、スピードはない。

知識を借りる、自分で知るというよりも借りるのだ。
安物買いだから、ごっそり買えるのだ。


真実を 直接知りたい と思えば、それは とても骨が折れる。
すべてを犠牲にすることが 要求される。
第二の愚か者は、ある限界までしか やろうとしない。
その限界というのは、安く知識が手に入ればそうするが、何か危険に晒されたら 尻込みするということだ。

勇敢でありなさい。
限りない勇気を持たなければ、第三の、祝福された愚か者にはなれない。


最後の話。
普通、最初の段階に留まる者はいない。
留まるのは理論上のことに過ぎず、すべての者は 多少なりともそこから抜け出なくてはならない。
程度、量の問題であって 質の問題ではない。
だから、人は ほとんど第二の範疇に見出される。

二番目から三番目ヘ行くには、あなたがどこにいようと この決まりを覚えておくように ーー
閉ざされたマインドを 持たないこと。
部屋で強盗を捕まえた、年老いた女中のようでありなさい。


「頼む、見逃してくれ。 何も悪いことはしちゃいないんだから」、強盗が 嘆願した。
「いいでしょう。 学ぶのに遅すぎるってことはないからね」と 女中は応えた。



そして それが、私の言いたいことだ。
もし あなたが 二番目にいて、自分を 知識人と思っているのなら、学ぶのに 遅すぎることはない。
あなたは充分 知識を得た。
今度は、知ることを学ぶがいい。

ごみが鏡につくように、マインドは 知識で雑然となる。
知識は 智ではない。
智には まったく違った質と香りがある。
学びの香りがある。


その違いを言おう。

知識とは、情報や 体験を集め続け、分類、記憶し続けること。

学びとは、何も集めず、ただ 起こっていることや 起こるであろうことに対して、受け入れ態勢を整えておくこと、マインドが 開いている状態にあることだ。

知識が 増えれば増えるほど 閉じていく。
持っている知識が 常に間に入り、それを避けられなくなるからだ。


私の話を聞いているあなたが 知識人、学者であるならば、話を直接、何も介さずに 聞くことはできない。
話は聞けない。
私が話している間中、あなたの内部、奥深いところで 判断し、評価し、批判している。
あるのは 対話ではなく議論だ。
あなたは 沈黙しているように見える。が、そうではない。
知識が ぐるぐる回り続けている。
それは私の言うことを すべて台無しにする。
捻じ曲げる。
あなたに 何が届こうとも本物ではない。
何が届くにしても、あなたの知識が 許したものでしかない。

学ぶマインドとは、過去に邪魔されることなく 注意深く聴こうとするもの、まさに開かれたもの、何であれ、ありのままに映す 鏡のようなものだ。
学び始めれば、智に 達する。
自分が 何も知らない ことを あなたが悟るうえで、智は 役に立つ。

真実を知るに至った者は、己の無知に 気づく。
自分が 知らないことを 知る。
この智における無知は、転換、変容、革命となる。

第二の状態から、第三の 祝福された愚か者の状態に 跳躍しなさい。

私の祝福は、すべて 祝福された愚か者たちに向けられる。


今日は これくらいにしよう。



第四章「そのままにしておきなさい」 終わり・・・第五章「所有と実存」ヘ 続く