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「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「そのままにしておきなさい」 (第五の質問)(01)

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第五の質問

愛する 和尚、

学のある愚か者と 学のない愚か者のうち、どちらが良い弟子になれるでしょうか。
そして 知識人のために ーー「愚か者は幸いである」、この言葉に対する見解をお聞かせください。




ここには 一人の知識人も 見あたらない。
祝福された愚か者だけだ。

質問者である スワミ・ヨーガ・チンマヤ博士は 例外かもしれないが。
彼は 例外だろう。
だが、 それを別にすれば、ここには 一人の知識人も見あたらない。

天国は 愚か者たちに占領されかけている、というマホメッドの極めて奇妙な言葉がある。
それに出くわしたときは、私でさえ驚いた。
マホメッドが それほど革新的だとは思ってもみなかった。
途方もない言葉だ !
天国は愚か者たちに占領されかけている、これをもって何を言おうとしたのか。
だが、 あなたたちを見ていて、マホメッドが 正しいように思えてきた。
ここも、愚か者たちに占領されかけている。

何種類の愚か者がいるか 説明しよう。

第一は、知らないうえに 自分が知らないことも知らない者、単なる愚か者。

第二は、知らないのだが、知っていると思っている者、複雑な愚か者、学のある愚か者。

そして第三番は、自分が知らないことを知っている者、祝福された愚か者。

誰もが、単なる愚か者として生まれて来る。
それが「愚者」の意味だ。
子供は皆 単なる愚か者、知らないことを 知らない。
まだ 知の可能性に 気づいていない。
それがキリスト教の アダムとイブの話だ。

神は彼らに言った、「知恵の木の実を 食べてはならない」。
知恵の木の実を食べる という事件が起こる前、二人は 単なる愚か者だった。
何も知らなかった。
当然、知らなければ 不幸になるのは難しい。
だから、とてつもなく幸せだった。
不幸になるには 少し訓練がいる。
不幸を生み出すには 少し訓練が、ちょっとした技術が必要だ。
知識がなければ、地獄は造れない。
知識なしに どうやって地獄を造る ?

アダムとイブは 幼い子供のようだった。
子供が生まれるたびに、一人のアダムが生まれる。
子供として生きるのは数年、せいぜい四年だ。
その期間は 日に日に短くなっている。
地獄の造り方を知らないから、子供は天国に住む。
生を信頼し、岸辺の小石や 貝殻といった取るに足らないものを楽しむ。
宝物でも見つけたように それらを集める。
色のついた ありきたりの石が、コイヌール (インド産のダイヤモンド)のように見える。
あらゆるものが 子供を魅了する ーー 朝日にきらめく露、夜の星々、月、花々、蝶々。

だが、 少しづつ知り始める。
蝶は蝶に過ぎない、花は花に過ぎない、大したものは 何もない と。
子供は 名前を知り始める。
これは バラ、あれは チャムパで それはチャメリ、そしてこれは 蓮。
だんだん 名前が障害になっていく。
知れば知るほど、子供は それ自体から切り離され、頭でっかちになる。
もはや全体ではなく 頭で生きるようになってしまった。
それが堕落の意味だ。
知恵の木の実を 食べてしまったのだ。

子供は皆、知恵の木の実を食べねばならない。
子供は皆、とても単純だから、複雑にならなくてはならない。
それは 成長の一部だ。
子供は皆、単なる愚か者から 複雑な愚か者へと向かう。
複雑な愚か者には程度の違いがある。
大学に入学したての者が少々、卒業した者が少々、大学院生になる者が少々、博士や哲学博士になる者が少々。
程度の違いがある。
しかし、知ることへの誘惑は大きく、すべての子供は 何らかの知識を味わわざるを得ない。
その場に立ちはだかる未知のものは、どれも危ない。
危険物となる。
知識があれば処理できる、だから それを知らねばならない。
知識なしに処理できるだろうか。
だから、子供は皆知るようになる。

したがって、最初の愚か者は当然、必然的に 二番目の愚か者になる。
しかし、二番目から三番目の愚か者になる必然性はない。
なるかもしれないし、ならないかもしれない。
なるのは、二番目の愚かしさが 大きな重荷となった場合に限られる。
極度に多くの 知識を身につけ、頭だけの存在となり、感性や気づきや生活を すっかり失った。
マインドの中で ぐるぐる回る理論、経典、教義、言葉につぐ言葉に過ぎないものになってしまった。
あるとき、それに気がつけば、人は そのすべてを 落とさざるを得なくなる。

すると、その人は 第二の少年期に達し、再び子供になる。
エスの言ったことを覚えておきなさい、
「私の神の王国には、幼子のような人々だけが迎えられるだろう」。
だが 忘れてならないのは、イエスは「幼子のような」と言っているのであって、「幼子」と 言っているのではない ということだ。
幼子は 入れない。
世間の風習に染まり、汚され、それを自分の手で 清めなければならない。
その 体験が必要だ。

それでイエスは、「幼子」とは言わずに「幼子のような人」と言う。
「ような」という その言葉には、極めて深い意味がある。
子供ではないが、子供のような人 ということだ。
子供は 聖者だが、 罪の誘惑をまだ 体験していないから 神聖であるに過ぎない。
その神聖さは 極めて単純だ。
大して価値はない。
手に入れたわけでも、努力したわけでもないし、まだ誘惑されてもいないからだ。
誘惑は 遅かれ早かれやって来る。
世の中には 千と一つの誘惑があり、子供は 色んな方向に引っ張られるだろう。
そうした方向へ 行くべきではない と 言っているのではない。
もし自分を押さえ、そうした方向へ 行かないように抑圧すれば、子供は いつまでも 最初の愚か者に留まる。
エスの王国の 一員にはなれない。
マホメッドの天国には 入れない。
それは できない。
無知でいるだけだ。
その無知は 抑圧に過ぎぬものであって、知識からの解放ではない。


まず知識に達し、罪を 犯さねばならない。
罪、知識、神への 不服従、そして 世の中という荒野に下り、道に迷い、己の 自我の生を生きてはじめて、すべての知識を 落とせるようになる。

誰もが落とせるわけではない。
子供は皆、最初の愚か者から 二番目の愚か者に移っていくが、二番目から三番目に行くのは、ごく少数の祝福された者に過ぎない。
だから、祝福された愚か者と呼ばれるのだ。

祝福された愚か者は、理解に達する 最も大きな可能性を持つ。
なぜなら、知識は不毛であり、あらゆる知識は 智への障害であると知るに至ったからだ。
知識は智への障害だから、知識を落とし、ひたすら理解する人となる。
まさに、物事が はっきり見えるようになるということだ。
その目には 理論も思考もない。
そのマインドは、もはやマインドではなく 知性そのもの、純然たる知性、もう ガラクタや 借り物の知識は 散乱していない。
その人は、ひたすら気づいている人、気づきの炎だ。

テルトリアヌスは 知識を二つの範疇に分け、その 一つを 無知なる知 と 呼んだ。
それは第二の愚か者、無知でしかない知だ。
学識者は、知っているにも関わらず知らない。
自分自身の体験として知ったのではないからだ。
学識者は 聞いた、記憶した。彼は 鸚鵡(オウム)、良くて コンピュータだ。


昨日、私は サニヤシンのニナドが アメリカから送ってくれた手紙を受け取った。
「和尚、私はとても幸せです。 私の勤めているオフィスのコンピュータが、『おはよう、スワミジ』と言って、毎朝 私を迎えてくれるのです」。
ニナドは、とても幸せだ。
『おはよう、スワミジ』と言ってくれるのは、コンピュータであることも 良く知っている。
中には誰もいない。
だが、そんな言葉でさえ 聞けば幸せになる。
誰もいない、心もない、誰がその言葉を言うのでもない、それが機械に過ぎないことを ニナドは知っている。

学識者が 何か言うときも、コンピュータだ。「おはよう、スワミジ」。
鸚鵡(オウム)に 似ている。
テルトリアヌスは、これを 本物でない知識、知識に捕らえられた、知識の装いをした無知と言う。
それは転落、少年時代の無垢からの転落。
堕落、 マインドの堕落した状態だ。
抜け目なく 小賢しいが、腐敗している。

それから、テルトリアヌスは 別種の知識がある と言い、それを「無知の知」と 呼ぶ。
ここにきて、人は すべての知識や理論を落とし、何の考えも抱かず、あるがままの生を 直(じか)に 覗き込む。
何の知識も持たず、ただちに、真実に直面する。
真実と 出合い、向き合い、あるがままのものを 開花させる。
無知の知 の 人は言う、「私は 知らない」と。
その人こそが イエスの言う子供、本当の子供ではないが、子供のような人だ。

私は、「その通り。 愚か者たちは幸いである。
神の祝福を受けることになっているからだ」と言う。

第一のものから 第二のものへは自動的だ。
第二のものから 第三のものへは そうではない。
二から三へ行くには、跳躍しようと 決意しなければならない。
それがサニヤスだ。
充分 知識は得た、再び 無知になろう、再び子供になって 生まれ変わろう、と あなたは決意する。
ここにいる私は 助産婦、あなたたちが 愚か者になるのを助ける。


覚えておきなさい、三番目に達しなければ生のすべては浪費そのものとなる。

アダムは神に背いた。
すべてのアダムは 背かなくてはならない。
アダムは堕落し、神の恩寵を 受けられなくなった。
すべてのアダムは堕落しなくてはならない。
アダムは知恵の木の実を食べた。
すべてのアダムは 物知りにならなくてはならない、自然の流れだ。
私は 何千もの寓話に出会ったが、このアダムの堕落の話に匹敵するものはない。
最も含蓄のある寓話だ。
だからこそ私は、新しい意味を持たせて何度も取り上げる。
それは 新たな意味を表出し続ける。

アダムが キリストに変わるとき、アダムは第三の愚か者になる。
キリストは第三の、祝福された愚か者だ。
アダムがしたことを キリストは元に戻す。
キリストは、途方もない従順さ、無垢に帰る。

ラビ、ユダヤの宗教的な人々、エルサレムの寺院の僧侶たちは、学のある愚か者だった。
彼らはイエスに 我慢がならなかった。
学のある愚か者は、つねに祝福された愚か者にかき乱される。
エスの存在そのものが 不愉快であったがために、学のある愚か者たちは 彼を殺さなければならなかった。

エスの存在そのものが 究極の平和、愛、情熱、光であったがために、己の全存在が危うくなると気づいたのだ。
この男が生きていれば、自分たちは愚か者、この男から逃れるには殺すしかない。
そうすれば、またユダヤ民族の学識者になれる。

ソクラテスは知識人に殺された。
マンスールは別の知識人に殺された。
第三の愚か者が 世に現れるたびに、必ず大きな闘いが起こる。
学識者は皆 結束する。
自分たちの商売が あがったりになりかねないからだ。
この男の言うことは すべて馬鹿げていると思いつつも、心の底では、自分たちの知識が馬鹿げたものであることも知っている。
何の役にも立たないからだ。
喜びも祝福も出てこない いつもの通り相変わらずだ。
その知識は 心に触れない、何の変容ももたらさない。
心の底で そのことを知っているから、知識人は より一層不愉快になる。
そうした人が 。いること自体が、知識人をただの人にしてしまう、だから殺したくなる。

エスが いなかったとき、彼らは寺院の 偉大な僧侶だった。
だが、イエスの出現で、突然 ただの人になってしまった。
エスの存在は、神の存在そのものだった。
それで僧侶たちは皆、自分たちの栄光が 取り上げられた と感じた。

二番目から三番目へ ジャンプするのは、極めて勇気のある人々だけ。
それは 量子的 跳躍だ。
宗教は 極めて勇気のある人々、本当に 向こう見ずな人々だけのものだ。
臆病者には 相応しくない。



(01)終わり・・・(02)へ 続く