saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章 「そのままにしておきなさい」 (第四の質問)

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第四の質問

愛する 和尚、

あなたは本当にいたずら好きですね。
あなたは、私たちが あなたの家に入れるように、私たちの家を壊したい と言います。
でも、見ました。 あなたの家には、床も、壁も、天井もありません。
だから私は、引き込まれるのを恐れ、玄関で 柱にしがみつきながら眺め続けているのです。



その通りだ。
私は あなたたちを騙そうと、あなたたちが 望んだこともないものに あなたたちを誘い込もうと、精一杯 努力している。

弟子と師(マスター)は 大きな闘いの中にある。
大いなる闘争が続く。
弟子が 不運なときにのみ、弟子の勝利はあり得る。
師が 勝利するとすれば、弟子が祝福されている、非常に幸運ということだ。
闘いが 起こるのは、弟子が誤った動機で 師のところに来ているからだ。
おそらく、自我が何らかの 霊性を求めたから やって来たのだろう。
弟子は 人生の落伍者となった。
お金、権力、特権、尊敬、経済的成功、政界での野望 ーー その世界で弟子は失敗した。
利己的な旅の 頂上を極めることができなかった。
大統領や首相に なれなかった。
もはや生は その手から走り去っているのだが、弟子は ひとかどの人物になりたがっている。
無名の人でいるのは、極めて、極めて不愉快なことだ。

最後に、人々は宗教的なものを 捜し求める。
そちらの方が簡単そうだ。
ある種の自我へ到達するにも、ある形の自我を具現するにも、そちらの方が簡単そうだ。
何はともあれ、和尚のサニヤシンにはなれる。 いとも簡単に。
そして、すばらしい気分、特別な存在になった気になれる。

宗教的と言われる人々は、俗世で できなかったことを実現しようとする ーー ときには 難行苦行によって。
何日も続けて 断食をする者、その人は 特別な存在となる。
そんなに断食できる者など いやしない。
マゾヒストなのだろう、そうに決まっている。
自殺的なのだろう。
そうに決まっている。
ところがその人は、人々に偉大な大聖(マハトマ)として尊敬されだす。
すごい断食をした、肉体に逆らった、安楽に抗した。
剣のベッドに横たわったり、何年も立っていたり、砂漠で柱の上に何年も座っていたり ーー ただ 柱の上に座っているだけだが。
とても居心地が悪い。
眠れないし、休めもしない。
だが、人々を 惹きつける。
突然 苦行者は、極めて重要な人物となる。
なりたくてもなれなかった首相や大統領でさえ、やって来るようになる。
これほど偉大な苦行者に 祝福してもらえれば、権力の世界で さらに上に行けると考えているからだ。
苦行者は、とても心地よい満足した気分になる。
今や、自我は絶頂に達した。
王や 首相や 大統領までが 会いに来る。

弟子は、誤った動機でやって来る。
あるいは、ひどい混乱状態にあって、何らかの平安を手に入れようとして やって来る。
どうして平安を 手にしたいのだろうか。
自分の野心を もっとうまく実現できるようにと望むからだ。


つい先日、私は マハリシ・マヘシ・ヨギの 超越瞑想の宣伝広告を読んでいた。
ありとあらゆることを 受けあっていた ーー 良い仕事、仕事の上達、健康、精神の健康、肉体の健康、長寿、人が望みうるもの すべて。
経済的、精神的、社会的、肉体的、心理的な あらゆる利益が ずらりと並んでいる。
二十分 座り、コカコーラ、、コカコーラとか、何か 馬鹿げた言葉を繰り返すだけでいい。

極めて単純 !
だからこそ、マントラを誰にも 聞かせないようにと 言われているのだ。
聞いたら 人は笑うだろう !
もし、「私はコカコーラ、コカコーラと唱えています」などと 人に言ったら、気が狂ったと 思われるだろう。
だから内緒にしておかねばならない。
人に聞かせるには、ばかばかし過ぎる。
とにかく 内緒だ。

二十分 ナンセンスな言葉を 繰り返すだけで、それほど多くのご利益が得られる。
それは、たちどころに凡庸なマインドに訴える。
このマハリシ・マヘシ・ヨギの 超越瞑想は、瞑想でもなければ 超越でもない。
それは騙されやすい人、あらゆる御利益を捜し求めている人、万能薬や 治療薬を求めている人を 食い物にしようとするものだ。


本物の師に 出会えば、薬はない、万能薬はない と言うだろう。
また、心穏やかにしてやろう、健康にしてやろう、ああしてやろう、こうしてやろう、そうすれば俗世に戻って もっとうまく望みを遂げられるだろう、などとは言わない。
違う。
師は、野心のせいで あなたは取り乱している、混乱している と 言う。
野心を 落としなさい。
本物の師が請け合えるのは、あなたの野心、あなたの自我を取り去ること、あなたを殺すことだけだ。
あなたは、護ってもらおう、安心を 手にしよう、支えを見出そうとしてやって来た。
だが、本物の師とは、支えを 次々に奪っていく人のことだ。
いつの日か あなたは、ぺしゃんこに潰れる。
そして まさにその倒壊の中で、灰から新たな存在が生まれ出る。
その新たな存在は あなたと無関係、あなたと繋がりを持たないほどに 新しい。
過去を持たない、未来も持たない、いまここの 純粋な存在でしかない。


質問は クリシュナ・ラーダからだ。
彼女は正しい。「あなたは本当にいたずら好きですね」ーー その通り。
だから気をつけなさい。
近いうちに逃げられるものなら、逃げるがいい。
いつまで玄関で しがみついていられるというんだね ?

玄関まで来たからには、家までは もう遠くない。

そしてまた、玄関も想像の産物だ。
床も 屋根も 壁もないような家に、玄関など あるはずがない。
ちょっと考えてみなさい。
玄関は 想像物に過ぎない。

私は、玄関が見えるよう あなたに手を貸している、だから玄関に入るくらいはできる。
旅は 楽になる。
時々私は、あなたの望みに 応えているのだが、それはただ、あなたが 少しでも長く ここにいられるようにするためでしかない。
そのことを理解すれば、やがてあなたは、愚かしいことを望んでいたのだと わかるようになるだろう。
そして ある日突然、玄関が 消え、当然 その家も なかったことがわかるだろう。

だが、壁も 屋根も 床もない家は 神の家だ。
というのは、まさに空が その屋根であり、大地が その床であり、境界のない境界が その境界だからだ。

そう、私は 境界のある家には連れていかない。
そういう家は 再び別の拘束に、別の監獄になるだろう。
より快適で 飾りつけも良く、より現代的な様式の家具が備え付けられているだろうが、それでも 監獄だ。

私の家は 自由の家だ。
ラーダの言う通り「あなたの家には、床も、壁も、天井もありません」ーー「だから私は、玄関で柱に しがみつきながら眺め続けているのです」。
もう一度 見てごらん。
柱はない。
柱が あると信じるのは、しがみつきたがっているからだ。
もう一度見てごらん、目を 開けて。
柱も、しがみつけるものもない。
リラックス、レット・ゴー だ。
すると、突然 あなたは消え、あなたは無限のものに、空間になるだろう。
それが神、すなわち空間、無境界だ。

私の家は 神の家、人の作った寺院ではない。


聞いた話だが ーー
二人の会社員が 仕事を終え、町の中心にあるバーで 酒を 一杯、二杯と飲んだ。
一人が 三杯目を勧めたが、勧められた友人は、家に帰って 女房に言い訳しなければならなくなる、と言って 断った。
「何の 言い訳だい ? 」と 友人は尋ねた。
「わかるはずないだろう。 まだ家に 帰っていないんだから」


玄関に 立ち続けてはいけない。
玄関に立っていても わかりはしない。
家に来なさい、私が用意した この無限性の中に 消えなさい。
消えて はじめて、あなたは知るだろう。
知れば いかなる釈明も要らない、理論も 要らない、解釈も要らない。
体験そのものが 自分の確証となる。

これまであなたは、小さい家の 狭くて暗い部屋にいて、絶対的自由の中に 住めるなんて 信じられなかった。
自由の身でいる能力を 失っていた。

その能力を 学び直さなくてはならない。
取り戻さなくてはならない。
私が ここにいるのは、あなたを 訓練するためではない。
規則を与えるためでもない。

原理 原則のない生、規律を 押しつけられない生を与えるために 全力を注いでいるのだ。

私にできる贈り物は、自由しかない。

自由には 壁がない、空のように無限だ。

空全体を 求めなさい。
それは あなたのものだ。



(第四の質問)終わり・・・(第五の質問)へ 続く