saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2話・・・Q&A 二番目の質問 (03)

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( そうしたら,明け渡す必要など何もない
なぜならば
あなたは 自分がいないということを 知っているからだ
自分がいない ということを知ることこそが 明け渡しなのだ )


それは私に明け渡すという問題じゃない
それは神に明け渡すというような問題でもない
それは 全然 明け渡すなどという問題じゃないのだ !
明け渡しとは
自分がいないということのひとつの〈洞察〉
ひとつの〈理解〉なのだ

自分がいないということ
自分が無であるということ
空(くう)であるということを 見ることによって
明け渡しが育ってゆく
明け渡しの花は〈空(くう)〉という樹に育つものだ
それは 目標志向などではあり得ない
が,自我(エゴ) は 目標志向だ
自我(エゴ) というのは未来をあこがれてばかりいる
それは あの世をあこがれることさえもできる
それは 天国をあこがれることもできるし
ニルバーナ(涅槃)をあこがれることもできる

それが 何をあこがれるかは問題じゃない
あこがれる ということが それの何たるかなのだ
未来に投影するということが それの何たるかなのだ


それを見てごらん !
それを見抜いてごらん !
私は それについて考えろと言っているんじゃない
もし それについて考えたりしたら,あなたはのがしてしまう
考えるというのは,またしても過去や未来を意味する
それを ひと目のぞき込んでごらん
アヴァロキタ (観自在) だ !
それをのぞいてごらん
英語の見る (look) という言葉は
アヴァロキタ (avalokita) と同じ語源から来ている
それを 見 る のだ !
それも たったいま ーー
自分に「オーケー
家に帰ったらやってみよう」などと言いふくめないこと
もう自我(エゴ) がはいり込んでいる
目標がはいり込んでいる
未来がはいり込んでいる
いつであれ,〈時〉が はいり込むようなときには
あなたは 分離という あの虚構に落ちているのだ


それを こ こ に あらしめなさい
まさにこの瞬間 ーー
そうしたら,あなたは突然
自分がいて
しかも自分が どこに向かっているのでもなく
どこから来ているのでもなく
ずうっと ここにいたのだ ということがわかる
〈ここ〉こそが唯一の時であり,唯一の空間だ
いまここが 唯一の存在なのだ
その〈いま〉の中に明け渡しがある


“ 私の明け渡しは目標志向です ”,と あなたは言う
“ 私は自由を勝ち取るために明け渡しているのです・・・ ”

しかし,あなたは自由 な の だ !
不自由であったためしなどない
あなたは 自由なのだ
だが,またしてもそこには同じ問題がある
あなたは自由になりたい
けれどもあなたは
自分自身から自由になって はじめて,自分が自由になれるのだということがわからない
ほかの自由など何もありはしないのだ
自由について考えるとき
あなたはまるで自分がそこにいて
そして,自由であるかのごとく考える
あなたが そこにいない そこに自由があるのだ

自由というのは 自 己 か ら の自由を意味するのであって
自 己 の 自由ではない !
牢獄が消え失せた瞬間 ーー
囚人も消え失せる
なぜならば,囚人が 牢獄だからだ !
あなたが牢獄から出て来た瞬間 ーー
あなたもまたいなくなる

そこにあるのは 純粋な空(くう)だ
純粋な空間だ
その純粋な空間が
ニルバーナ,モクシャ(解脱),開放と 呼ばれるものなのだ

達 成 しようとするよりも 理 解 しようとするがいい

“ 私は自由を勝ち取るために明け渡しているのです ”

だとしたら
あなたは明け渡しを ひとつの手段として利用していることになる
そして,明け渡しというのは目的地(ゴール)なのだ
それ自身で ひとつの結末なのだ

私が 明け渡しは ゴールだと言うとき
それは,明け渡しが どこか未来で達成されなければいけない という意味じゃない
私が言っているのは
明け渡しというのは 手段ではなく
それ自身で ひとつの結末だということだ
明け渡しが 自由をもたらす というのじゃない
明 け 渡 し が 自 由 な の だ !
その二つは同義語だ
それらは同じことを意味する
それは 同じものを二つの違った角度から見ているにすぎない


“ ですから,それは全然本物の明け渡しではありません ”

それは 本物でもニセ物でもない
それは全然明け渡しなんかじゃないのだ
それはニセ物でさえもない


“ 私はそれを見守っています。 けれども,問題はそれを見張っているのが
いつも〈自分〉だということです。
したがって,その見張りから出てくる了解は ことごとく自我(エゴ)の補強でしかありません。
私は自我(エゴ)に騙されているような気がします。 ”

あなたが 自我(エゴ)に騙されているような気がする と言っている
この 自 分 というのは 誰のことか ?

それが 自我(エゴ)そのものなのだ
自我(エゴ) というのは それ自身を たくさんの破片に
たくさんの部分に分けることができるものだ

そうやってゲームがはじまる

あなたが追跡者であり
そして,あなたが追跡される者なのだ
それはまるで
自分自身のしっぽをつかまえようとして跳びはねている犬みたいなものだ
あなたが それを見れば
その馬鹿馬鹿しさは よくわかる
だが その馬鹿馬鹿しさを見抜くのは あなたであって
犬には それがわからない
しっぽをつかまえるのが難しいとわかればわかるほど
彼は気違いのようになってなおさら跳びはねる
そして,速く,大きく跳びはねれば跳びはねるほど
しっぽの方も速く,大きく跳びはねる
そして,その犬には何が起こっているのかが わからないのだ
それも,彼はどんなものでもつかまえる名人だというのに ーー
この ただのしっぽが つかまえられない


これが あなたに起こっていることだ


(04)へ続く