saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2話ーーーQ&A 三番目の質問 (06)

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「 死という地点において知識は破錠する。そして我々は存在に開くのだ 」
それはあらゆる時代を通じて仏教の根本体験であり続けてきた
仏陀は誰かが死ぬと必ず
彼の弟子たちを,火葬の薪の上で燃える体を見にやったものだ
そこで瞑想するために
生が無であることを瞑想するために ――

「死という地点において知識は破錠する・・・」

そして,知識が破錠するとき
心(マインド) が破錠する
そして,心(マインド) が破錠するとき
そこに〈真実〉があなたを貫く可能性がある


だが,人々はそれが わからない
誰かが死ぬと
あなたは どうしていいかわからない
とても まごついてしまう
誰かが死ぬとき
それは大いなる瞑想の瞬間なのだ
私は つねづね
それぞれの町にひとつずつ,死のセンターが必要だと考えている
誰かが 死のうとしていて
その死が ごくごくはっきりしてきたら
その人は死のセンターに移されるべきだ
それは小さな寺院で
瞑想の中に深くはいってゆける人たちが
死んでゆく人のまわりに坐り,その人が死ぬのを助け
彼が無の中に消えてゆくときに
その人の実存に加われるような場所であるべきだ
誰かが 無の中に消えてゆくときには
大変なエネルギーが放たれるものだ
その人のまわりを取り巻いていたエネルギーが放出される
もしあなたが その人のまわりの静かな空間にいたならば
あなたはものすごいトリップをすることだろう
ほかのドラッグに,あなたをそこまで連れて行くことはできない
死人というのは
自然にすさまじいエネルギーを放出しているものだ
もしそのエネルギーを吸収することができたなら
あなたもまた ある意味でその人と一緒に死ぬ
そして,あなたは〈究極〉を見るだろう
根源にして目的地であるもの
初めにして終わりであるもの ――


「人間はそれ自身の存在によって世界に〈無〉をもたらす存在である」
と,ジャン・ポール・サルトルは言う
「意識とはあれこれの対象ではない。 それはまったく対象などではない。
だが,それならそれは間違いなくそれ自身であるだろうか ? 」
サルトルは言う
「 否,それは厳密にはそれがあらぬところのものだ。 意識はけっしてそれ自体とは一致しない。 このように,私が私自身について思いをめぐらすとき,その対象となっている自己は 思いをめぐらしている自己とは異なる。
自分が何であるかを言い表わそうとしても,それはうまくいかない。 なぜならば,私がしゃべっている間に,私がそれについて語っている当のものは過去の中へとすべり落ちてゆき,私がそうであったところのものになってしまうからだ。
私は私の過去であり,私の未来であり,そして,なおかつ 私というものはない。 私はいままであるひとつのものであったし,そして将来 私はまた別なものであるだろう。
しかし,現在においては無である。」


もし誰かが「あなたは誰ですか ?」と尋ねたら
あなたは何と答えるつもりかね ?

もう そこにはない過去から答えるか
まだ そうなっていない未来から答えるかの どちらかしかない
しかし,あなたは誰か ?
まさに この瞬間には ? ーー
ひとりの “ 誰でもない人 (nobody) ”
ひとつの “ 無 (nothingness) ” だ
この〈無〉こそまさに中核,ハート
あなたの 実存のハートそのものなのだ


「 死は生命の木を切り刻む斧ではない。それはその木に育つ果実なのだ。 」
死とは あなたがそれでできているまさにその実体だ
〈無〉こそまさにあなたの実存なのだ
愛を通じてでも,瞑想を通じてでもいい
この〈無〉に到達してごらん
そしてその一瞥を得続けるがいい
これが シュンニャという言葉で ナーガルジュナが意味するものだ
これが 拈華微笑(ねんげみしょう)の 説法の日
仏陀が 手渡したものだ
これがマハーカーシャパが笑って理解したものなのだ
彼は 無と純粋性を
その無垢を見て取った
その初源の無垢
その輝き,その不滅 ーー
なぜならば,無は死滅し得ないのだから ーー
物は死ぬ
が,無は不滅だ
永遠だ


もしあなたが 何かしらと同化していたら
あなたは死の苦しみを味わうだろう
だがもし 自分が死であることを知っていたら
どうして死を 苦しむことなどあり得よう ?
そのときには,何ものもあなたを滅ぼすことはできない
無とは破壊され得ざるものなのだ


ひとつ こんな仏教の逸話がある
地獄の閻魔大王が新来の霊に
生前,彼が三人の天国からの使者たちに会ったかどうかと尋ねた
彼が
「いいえ大王様,会いませんでした」と答えると
閻魔は 彼が,老いさらばえて腰の曲がった老人か 貧乏でよるべもない病人か,死者を見たことがあるかと尋ねた
仏教徒たちは この三つを神の使者と呼ぶ
老い,病い,死 ーー
神の三人の使者たち
なぜだろう ?
それは人生の中の こうした経験を通してはじめて
あなたは 死というものに気づくからだ

そして,もし死に気づいて
どうやってその中にはいってゆくか
どうやってそれを歓迎するか
どうやってそれを迎えるかを 学びはじめたならば
あなたは 束縛から
生と死の車輪から解放されている


ハイデッガー
またゼーレン・キェルケゴールも こう言っている
「無は恐怖を生む」,と
それは 物語の半分でしかない
なぜならば,この二人はただ哲学者にすぎないからだ
死が恐怖を生むのは そのためだ
もしあなたが仏陀に,マハーカーシャパに
ナーガルジュナに聞くならば
もしあなたが 私に聞くならば ーー
死は部分的に見れば恐怖を生む
が,完全に,トータルに見れば
それは あらゆる恐怖から,あらゆる苦悩から
あらゆる不安から あなたを自由にする
あなたを サンサーラ(輪廻) から自由にするのだ


部分的に見れば それは恐怖を生む
自分はいずれ死んでゆく
自分は 無になってしまう
やがて自分は消え失せる ーー
当然,あなたは 居ても立っても居られなくなってしまう
震え上がって,根なし草になる

もし死を トータルに見たら
あなたは 自分が死であることを知る
あなたは それでできているのだ
だとしたら,何も消え失せるはずがない
何かが残ることもない( Nothing is going to remain )
〈無〉が残るのだ( Nothing is going to remain )


ただ〈無〉だけがある
仏教というのは
多くの人たちが考えてきたような悲観的な宗教じゃない
仏教は楽観論と悲観論の両方をお払い箱にする
二元対立を処分してしまう道なのだ


死に 瞑想しはじめてごらん
そして,いつでもいい
死が近くにあると感じるようなときには
それに はいってゆくがいい

愛という扉を通って
瞑想という扉を通って
死んでゆく人間という扉を通って ーー
そして,もし ある日 それがやって来たら
ーー ある日,必ず あなたは死ぬ ーー
よろこびの中で,祝福の中で それを迎えなさい
そして,もしあなたが
よろこびと祝福の中で 死を迎えることができたなら
あなたは 最大の絶頂(ピーク)に 到達することだろう
なぜならば,死とは 生のクレッシェンドにほかならないからだ

その中には最大のオーガズムが潜んでいる
その中には最大の自由が潜んでいる


(07)へ続く