saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第2話ーーーQ&A 三番目の質問 (05)

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( .そのときには,あなたは〈全体 whole〉の中に 消え去ってゆく
それが ニルヴァーナ (涅槃) だ )


論理実証主義者というのは とても論理的に見える
けれども,彼らは 何かを見落としている
なぜならば,現実(リアリティー)というのは はるかに論理を越えたものだからだ
あたり前の体験では
われわれは彼らが言うようなものにしか行き当たらない
この椅子はここにある
これは 片づけられる
そうしたらあなたは ここに何も椅子がないと言うだろう
それは ただ単にそれの不在を指し示す
その椅子は取り除かれている
こういうのが通常の無の例だ
あるとき 家が建っていて
そして,それが取り壊された
それはもうそこにはない
それは ただの不在だ


だが,あなたの実存の内側深く
まさにその中核には,いくつもの無がある
生の まさに中核には死が存在する
死こそ その台風の目なのだ
愛の中で あなたはそれに近づく
瞑想の中で あなたは死に近づく
肉体の死においてもまた,あなたはその死に近づく
夢が消え失せる深い眠りの中でも,あなたはそれに近づく

それはとても生命授与的なものだ
それは生命を強化するものなのだ
深く眠れない人は病気になってしまうだろう
なぜならば,深い眠りの中ではじめて
彼は自分の最も深い深淵の中へと死んでゆき
そして生命を,エネルギーを
活力(バイタリティー)を 取り戻すからだ

朝,彼は ふたたび新鮮で若々しい
情熱で はち切れそうな元気にあふれている
ふたたび生気でみなぎっている

死ぬことを学びなさい !

それは 学ばれるべき最大のアートだ
世にある最大のアートなのだ

ハイデッガーは言う・・・
彼の見解は 非常に仏陀に近づいている
しかも,彼の言葉はとても現代的だ
私が彼を 引用するのはそのためだ
「あらゆる存在は,それが存在である限り 無でできている」
キリスト教にも それと並行する教理がある
非常に 無視されてはいる
なぜならば,キリスト教神学者たちには手に負えないからだ,
それは彼らの理解を越えている
その教理は “ クレアティオ・エ・ニヒロ (creatio e nihilo) ”
天地創造は 無から出ている,というものだ


もし現代物理学者に聞いてみれば
彼は 仏陀に同意するだろう
物質の中に深く はいってゆけば はいってゆくほど
物は 消え失せはじめる
原子が分割されるとき
物という境界が 完全に消え失せる瞬間が来る

そこに原子はある
けれども,それらは もう物ではない
それらは 無なのだ
非常に 理解し難いが
現代物理学は ごく形而上学に近づいてきている
というのも
それが 日一日とリアリティーに近づきつつあるからだ
それは 物質を通じて接近してはいる
が,まぎれもなく無に近づきつつあるのだ

あなた方が知っているような物質というものは
もう現代物理学の中には存在しない
物質というのは ただの幻覚にすぎない
それは 見かけだけで,そこにありはしないのだ
その堅固さ,その実態性はすべて幻覚なのだ
何ひとつ 実体的なものなどない
一切が 流転するエネルギーにほかならない
物質とは エネルギー以外の何ものでもないのだ
そして,さらに深く エネルギーの中にはいってゆけば
エネルギーというのは 物ではない
それは 無なのだ


(06)へ続く