(10)
( 我々は 死んでいる世界に 住んでいる。
その 死んでいる世界が “これ” だ。
もし、この死んでいる世界の 向こうに 生きている流れを 感じられれば、
あなたは “それ” を 感じられる )
が、リシ達は、どんな名前も それにつけなかった −−− それに名前をつけるのは、またしても ラベルを張ることになるからだ。
もしあなたが それを「神」と 呼べば ラベルを張ったことになる。
すると、神は “これ” の 一部に なってしまう。
シャンカラは、神でさえ マーヤ、幻想の 一部だ と 言った。
しかし、それは キリスト教徒や ユダヤ教徒のマインドからすれば、考えられない。
彼らの神は、至高なる真実 を 意味するからだ。
が、ヒンドゥー教徒にとっては、神は 決して 至高なる真実ではない −−− なぜなら、至高 とは 名付けられないものだ からだ !
あなたが 名付けたら、至高では なくなる。
名付けてしまえば “これ” の 一部に なってしまう。
ヒンドゥー教徒たちは、その至高なるものを 示唆しようと奮闘したが、決して 定義しようとは しなかった。
“それ” は 一種の示唆だ。
もし あなたが “それ” を 神と言えば 定義したことに なる。
“それ” が カテゴリーの範疇に 入ってきた。
ゆえに、ブッダは 沈黙を守った。
彼は “それ” という言葉すら 使わなかった。
もしあなたが “それ” という言葉を 使えば
“これ” に 関連してくる。
“それ” という言葉を 使うことでさえ
“これ” に 触れることを 意味する。
そして、究極の事実とは
何をもってしても、言及できないものだ。
もし我々が 光と言えば、闇 が 連想される。
それは闇ではない かもしれない。
が、やはり 闇に触れることになる。
それは 闇に 関わっている。
光は、闇と関連して 初めて意味を持つ。
だから、光は 闇の彼方にあるものではない。
ゆえに ブッダは 沈黙に留まった。
彼は “それ” という 言葉さえ言わなかった。
“それ” は 最後に 使われる 言葉だ。
が、ブッダは “それ” という言葉を 使うことさえ よくないと感じていた。
そこで彼は “これ” を 否定し、“これ” を 破壊した。
決して “それ” という言葉を 前面に出さなかった。
彼は「これ を 破壊しなさい。そうすれば −−−」と 強調した。
そうすれば どうなる ?
が、彼は 沈黙を 守った。
「そうすれば −−−」の 後は、沈黙した。
彼は「これを破壊しなさい、そうすれば −−−」
そうすれば なにかが 起こる。
だが、なにが起こるか 誰も 知らない。
ブッダでさえ 知らなかった。
彼は よくこう言っていた。
「その後、 何が起こるかブッダでさえ 知らない。 というのも、知るブッダが そこに いないからだ。“これ” を破壊しなさい。
“それ” のことは 聞かないように」。
(10)終わり(11)へ 続く