saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第13章「在ることを通して越えていく」(10)


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(10)

( 我々は 死んでいる世界に 住んでいる。

その 死んでいる世界が  “これ”  だ。

 

もし、この死んでいる世界の 向こうに 生きている流れを 感じられれば、

あなたは  “それ” を 感じられる )

 

が、リシ達は、どんな名前も それにつけなかった −−− それに名前をつけるのは、またしても ラベルを張ることになるからだ。

もしあなたが それを「神」と 呼べば ラベルを張ったことになる。

すると、神は “これ” の 一部に なってしまう。

 

シャンカラは、神でさえ マーヤ、幻想の 一部だ と 言った。

しかし、それは キリスト教徒や ユダヤ教徒のマインドからすれば、考えられない。

彼らの神は、至高なる真実 を 意味するからだ。

が、ヒンドゥー教徒にとっては、神は 決して 至高なる真実ではない −−− なぜなら、至高 とは 名付けられないものだ からだ ! 

 

あなたが 名付けたら、至高では なくなる。

名付けてしまえば “これ” の 一部に なってしまう。

 

ヒンドゥー教徒たちは、その至高なるものを 示唆しようと奮闘したが、決して 定義しようとは しなかった。

 “それ” は 一種の示唆だ。

もし あなたが “それ” を 神と言えば 定義したことに なる。

 

 “それ” が カテゴリーの範疇に 入ってきた。

ゆえに、ブッダは 沈黙を守った。

彼は “それ” という言葉すら 使わなかった。

もしあなたが “それ” という言葉を 使えば 

 “これ” に 関連してくる。

 “それ” という言葉を 使うことでさえ 

 “これ” に 触れることを 意味する。

 

そして、究極の事実とは 

何をもってしても、言及できないものだ。

 

もし我々が 光と言えば、闇 が 連想される。

それは闇ではない かもしれない。

が、やはり 闇に触れることになる。

それは 闇に 関わっている。

光は、闇と関連して 初めて意味を持つ。

だから、光は 闇の彼方にあるものではない。

ゆえに ブッダは 沈黙に留まった。

彼は “それ” という 言葉さえ言わなかった。

 “それ” は 最後に 使われる 言葉だ。

が、ブッダは  “それ” という言葉を 使うことさえ よくないと感じていた。

 

そこで彼は “これ” を 否定し、“これ” を 破壊した。

決して “それ” という言葉を 前面に出さなかった。

彼は「これ を 破壊しなさい。そうすれば −−−」と 強調した。

そうすれば どうなる ? 

が、彼は 沈黙を 守った。

「そうすれば −−−」の 後は、沈黙した。

 

彼は「これを破壊しなさい、そうすれば −−−」

そうすれば なにかが 起こる。

だが、なにが起こるか 誰も 知らない。

ブッダでさえ 知らなかった。

 

彼は よくこう言っていた。

「その後、 何が起こるかブッダでさえ 知らない。 というのも、知るブッダが そこに いないからだ。“これ” を破壊しなさい。

“それ” のことは 聞かないように」。

 

 

 

(10)終わり(11)へ 続く