saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第七章 「 平安に住する者 」 (04)

(…語っていても 彼のなかに語る者はいない

そこには完全な沈黙がある、けっして破られない沈黙が ーーー )

 

禅僧たちは、仏陀は ひと言も言葉を 発しなかった、 と 言う

そして仏陀は 四十五年間、たえず語った

もし誰か 彼を超えうる者が いるとすれば、それは 私だ

ほかに彼を超える者は 誰もいない

そして私は あなた方に言う

私も ひと言も 言葉を発したことはない、 と

禅の人々は 正しい

私は 自分自身の体験から 彼らに同意する

私は あなた方に 語りつづけている

だが、深い内側には、自分が語ることによっては こわされない完全な沈黙がある

私が語るときには、沈黙が そこにある

そのなかには さざ波さえ 生じない

 

私は ここにいる

ある意味では完全に現前して

別の意味では 完全に不在で ーーー

というのも、私のなかには「私」と 言うものが まったく生じていないからだ

私が その言葉を 使わない というのではない

その言葉は 使われる必要がある

それは実用的だ

が、それは現実(リアリティ)は いっさい含んでいない

それは ただ実用的なもの、便宜的なもので、言語の手段にすぎない

それは まったく現実と 一致しない

「私」と 言うとき、私は 自分の方を指し示す言葉を 使っているにすぎない

が、あなたが 私の なかを見たら、そこにはどんな「私」も 見出せない

私は 見出せなかった

私は 見て、見て、見つめつづけてきた

内側を 見れば見るほど、ますます「私」は 蒸発していった

「私」は、 あなたが内側を 見ないときにのみ 存在する

それ は、あなたが 見ないときにのみ 存在できる

あなたが 見る 瞬間「私」は 消える

 

それは ちょうど、暗い部屋に明かりを 持ちこんだら、闇が 消えるようなものだ

内側を 見ることが、光、 炎だ

あなたは そこに闇を まったく見出せない

そして「私」は 凝縮された闇に ほかならない

 

ブッダの根本的性格、ブッダのダルマ、彼 独特の質は

彼は存在しない ということだ

彼は どんな属性も 持たないということだ

彼は 定義できないものであることだ

何であれ あなたが彼に与える定義づけは 不当だということだ

なぜなら それは彼を限界づける からだ

それは彼を 限定する、だが、彼は限定されない

彼は 純粋な 空虚だ

彼は 誰でもない 者だ

 

ブッダは あまりにもふつうだから、あなたは 彼に出会っても 気づかない

あなたは 王に 気づくことはできる

あなたは 王を認める言葉は 知っている

王も あなたが どんな言葉で認めるか 知っている

彼は それを用意する

彼は それを練習する

彼は あなた方に 自分が特別だと 証明しようと決めている

ブッダは そのようなものは 何も持たない

彼は 誰かに 何かを 証明しようとは しない

彼はあなた方に 認められようとはしない

彼には 認められる必要は 少しもない

彼は すでに〈家〉に 帰っている

彼には あなた方の注目は いらない

 

憶えておきなさい

注目は 心理的な 必要性だ

 

(04)終わり・・・(05)へ 続く