saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第12章、三番目の質問−01

(01)

質問 −−−−−−−−− 

 OSHO、普通、自分が感情タイプか、知性タイプか とても迷う時、自分がどちらのタイプに属するか、どうやって最終的に決められるのでしょうか ? 

 

 

それは 難しい。

まず最初に、三つの根本的なタイプがある −−− 知性タイプ、感情タイプ、三番目に 行動タイプだ。

それらが 三つの根本的なタイプだ。

 

「知性タイプ」とは、その人の真正な衝動が「知ること」にある という意味だ。

彼は 自分の人生を「知ること」に 捧げている。

毒物を研究している人は、その毒を飲んだら どうなるか、と 知るだけのために 毒を飲むこともある。

我々には 考えられない。
彼は 馬鹿みたいだ −−− 毒を飲めば死んでしまう!

もしそれで 死んでしまったら
毒を 飲めばどうなるか 知ったところで、何になろう?

その知識を得て どうする?

が、知性タイプの人間は
「知ること」を 生きることの上、命の上に おく。

知ることが、彼にとっては 命だ。
知らない ということは、彼にとって死だ。

知ることは 彼の愛であり、知らないことは ただ役立たずでいるにすぎない、ということだ。


ソクラテスブッダニーチェ、彼らは 存在とは何か、自分達は 一体どういう存在なのか、と 探究していた −−− 
彼らにとっては、根本的なことだ。

 

ソクラテスは「理解できない生は、生きるに値しない。

もしあなたが 生とは何であるかを知らなければ、生きることは 無意味だ」と 言っていた。

我々にとっては、意味があるように見えない。
ソクラテスの言葉は 意味がないように見える。

我々は 生き続けていて
生とは何か を 知る必要を感じないからだ。

それが、知るために 生きる人のタイプだ。


知が 彼の愛だ。
このタイプの人間は 哲学を発達させた。

哲学とは、知への愛 −−− 知ることを 意味する。

 

 二番目のタイプは 感情タイプだ。

感じること!

それを感じない限り、知識は無意味だ。
人は それを 感じなければならない!

感情とは、より深いセンター −−− ハートを通して 感じられる。
知識は 第一のセンター −−− 理知を通してやって来る。

人は 感じなければならない!
詩人は この範疇に属する。
画家、ダンサー、ミュージシャン、彼らは 感情タイプだ。

知ること だけでは充分でない。
それは まったく渇いている。
それには ハートがない −−− ハートなしだ!
感じなさい!

そこで、理知タイプの人間は 花が何であるかを知るために 花を解剖する。

だが、詩人には 解剖できない。
彼は 花を愛することならできる。
が、どうやって愛を 解剖できる?

彼は 花を感じることができる。

彼は、感覚を通して知ることだけが 本当に知ることだ、と 知っている。


科学者の方が、花について より以上に知っているかもしれない。
それでもまだ、詩人は 科学者の方が もっと知っているとは納得できない。

詩人は、自分の方が もっと花のことを知っているのだと知っている。

科学者の 知っている ということは、知識上のことだ −−− 
詩人が 知っているというのは、以心伝心的に知っている ということだ。

彼は 以心伝心で 花と話す。
彼は、花が どんな化学的構成になっているのかは 知らない
知らないのだ!

彼は その花の名前も、どんな種に属しているのかさえ 知らないかもしれない。
それでも彼は言う、「私は 花の真髄そのものを 知っている」と。


禅画家 輝海は、中国の皇帝に、彼の城に飾るために いくつかの花の絵を描くように命令された。

すると 輝海は「それでは、私は 花と一緒に暮らさなければなりません」と 言った。

だが皇帝は
「そんな必要はない。私の庭には あらゆる花が咲いている。
おまえは行って 描けばいいのだ!」と 言った。

すると輝海は
「花を感じないで、どうして花の絵を描けるでしょう?
私は 花の魂を 感じ取らねばなりません。
目で見るだけで、どうやって花の魂を 感じ取ることができるでしょう?
手で触れるだけで、どうして花の魂に 触れられるでしょう?
それでは花は 描けません。
だから、私は 花とともに、親密さの中に 暮らさなければなりません」と 言った。

 

「時々、目を閉じ、ただ 花たちのそばに座っている。 ただ、風と触れ合っているのを 感じる。

ただ花から漂ってくる香りを感じて、花と静かに心を通じ合わせることができるのです。

ある時は 花はただの芽であり、あには咲きほこっている。

ある時は 花は生き生きとし、雰囲気が違う。

またある時には 花は年老いて、死が 迫ってきている。

またある時は 花は楽しそうで、喜び祝っている。

またある時は、悲しげだ。

なのに、どうして私が行って描けるでしょう ?

私は 花とともに暮らさねばなりません。 そして、生まれた花は いつか死んでしまいます !

だから、私は 花の生体すべてを知る必要があります。

私は花が生まれ、死ぬまで ともに暮らさねばなりません。

そして、花の持つ たくさんの多種多面的な雰囲気を 感じなければならないのです」

 

「私は 闇が支配する夜に、花が どう感じているかを 知らねばなりません。

また、太陽が昇る朝、花が どう感じているのか。

鳥が飛んでいる時、また鳥が歌っている時、花は どう感じているのか。

嵐が やって来た時、またすべてが 静かになった時、花は どう感じているのか、知らなければなりません。

私は 花の多面的な有り様を 知らねばなりません −−− 間近に −−− 友として、仲間として、目撃者として、恋人として。
私は 花と関係を持たなければ ならないのです!


そして、初めて花を描けるのです。
お約束はできません。
花は 私が描けないほどの広大さを 示すかもしれません。
だから お約束できないのです。
でも、やるだけはやってみます」


そして 六ヶ月が過ぎた。

皇帝は 待ちきれなくなった。

そして側近のものに「輝海は どこにいる?
奴はまだ 花と交わろうとしているのか?」と 聞いた。

皇帝に仕えている庭師は 皇帝に
「私達には 彼の邪魔はできません。
彼は 余りにも木々と親しくなっていて、時々 私達は ただそばを通り過ぎるだけなのですが、そこに人がいると感じないくらいです!

彼は まったく木になってしまったようです。
彼は そこで、ずっと思いに浸っています」と 言った。


六ヶ月が過ぎ、皇帝は 彼の所に やって来て言った。
「何をしているんだ?
いつになったら 絵を描くんだ?」

輝海は言った。
「邪魔を しないでください。
もし描かねばならないとしたら、描くことを 完全に忘れなければなりません。
二度と 私に構わないでください!
邪魔をしないでいただきたいのです!
もし 何か目的があれば、どうして花達と親密に 暮らせるでしょう?
もし私が ただ画家としてそこにいて、絵を描く必要があるから 親密になろうとしている としたら、どうして親密さが生まれるでしょう?
何と馬鹿げたことを!


ここでビジネスは できません −−− だから、二度と来ないでいただきたいのです。
時期がくれば、私が 出向きましょう。
でも お約束はできません。
その時期は 来るかもしれません。
来ないかもしれません」


そして、皇帝は 三年待った。

その時、皇帝の所へ 輝海がやって来た。
彼は 宮殿の中庭に入って来た。

すると皇帝は
「もう花の絵を描かなくてもいい。
おまえは まったく花のようになってしまった。
わしが見たことのある全ての花を、おまえの中に 見て取れる!
おまえの目の中、おまえの仕草、おまえの動き、おまえの歩き方、おまえは まったく花になってしまった」と 言った。

すると輝海は
「私には もう描けない、と 伝えに来ました。
描こうと思う人間が もういないからです」と 言った。


これが、違ったタイプの 人の在り方、感覚で知る人の 在り方だ。


知性タイプの人は、感じるにしても まず知らなければならない。
彼は 最初に 知る。
そして、初めて 感じることができる。
彼の感覚もまた、知を通してやって来る。


次に 三つ目のタイプ、行動 −−− 創造タイプだ。

彼は 感情や感覚に 留まっていられない。
彼は 何かを 創造しなければならない。
彼は 創造を通してのみ、知ることができる。

何かを 創造しない限り、その対象を 知ることはできない。
創造者であることを通してのみ、彼は 知る者になる。

この三番目のタイプは、行動の中に生きる。


さて、「行動」と 私が言うのは、どういうことか?

それには、多くの次元が可能だ。

だが、この三番目のタイプは 常に行動志向だ。


彼は、生とは 何か、生の意味は何か と聞きはしない。
それよりも彼は
「この生を どう生きるか?
生は何のためにあるのか?
何を 作り出せばいいのか?」と 聞くだろう。

そして、創造することができれば、彼は 安心する。

彼の創造は 普通とは違うかもしれない。
彼は 人間の創造者であるかもしれない。
彼は 社会の創造者であるかもしれない。
彼は 絵を創造する人であるかもしれない。

が、創造性が そこにある。

たとえば、この輝海、彼は行動タイプではなかった。
そこで、彼は 自分自身を完全に 感覚の中に 消滅させてしまった。

もし彼が 行動タイプだったなら、絵を描いていただろう。
絵を描くことで、彼は 満たされていただろう。

これらが 三つのタイプだ。

 

そこで、多くの事が 理解されねばならない。

一つ、私は「ブッダニーチェは 両者とも最初のタイプに属する」と 言った −−−

 だが、ブッダは 正しくそのタイプに属し
 ニーチェは間違って属している。

もし 理知タイプの人間が 本当に成長していけば
その人は 一人のブッダになるだろう。

が、間違った道に進み、がむしゃらに進み、要点を見逃すと 一人のニーチェになる −−− 狂ってしまうだろう。

知を通じて、悟りを開いた魂には ならないだろう。
その反対に 狂ってしまう!

知ることを通じては、深い信頼に至らない。

むしろ 知ることを通じて、疑いにつぐ疑いを 作り続けるだろう。

そして結局は、自分自身の疑い というクモの巣に 引っ掛かる。
すると、その人は狂ってしまう。

ブッダニーチェは 両者とも同じタイプに属する。
が、彼らの在り方は 両極だ。

ニーチェは 一人のブッダになることができた。
ブッダも 一人のニーチェになる可能性があった。

もし 一人のブッダが間違って道を進んでいけば 彼は 狂ってしまうだろう。
もし 一人のニーチェが 正しく進んでいけば 悟りを開いた魂になるだろう。

 

感情タイプの中に、私は ミーラとド・サドの名前を入れる。

ミーラは 正しい部類に属する。

もし感情が 正しく進んでいけば それは 神への愛に 成長していく---

が、もし間違って進んでいくと 性的倒錯になる。

ド・サドは 同じタイプに属する。
が、彼の感情は 間違って進み、まったく倒錯した人間、まったく常軌を逸し 狂気に走った人になった。

 

もし感情タイプの人が 間違って進んだ場合、性的倒錯者になる。

 

理知タイプの人が 間違って進んだ場合、その人は 懐疑的狂人になる。


そして三番目が 行動タイプだ。

ヒトラーガンジーは、両者とも この三番目のタイプだ。

もし その人の 行動が正しく進めば、そこには ガンジーが存在するだろう。

もし間違って進むと、一人の ヒトラーが生まれるだろう。

両者とも 行動タイプだ。

彼らのような人達は、何かをせずには 生きられない。
だが、その行為は ただの狂気でもあり得る。

そしてヒトラーは 狂ってしまった。


彼は 行動していた。
だが、その行為は 破壊的になってしまった。

もし行動タイプの人が 正しく進んでいけば、創造的になる。

もし 間違って進んでいけば、破壊的になる。

それらの三つが 根本的な純粋なタイプだ。
が、純粋なタイプの人は 誰もいない。

それが 難しいところだ。
それらは ただのタイプだ!

 

誰もが みな混じっている。
それらのタイプ 全てが、全員の中に存在する。

実のところ、それはあなたが どの
タイプに属するか という問題ではない。

本当の問題は、あなたの中で どのタイプが 一番多くの部分を占めているか、という問題だ。

 

ただ、あなたに説明するために あえて分類したにすぎない。

純粋なタイプの人間は 誰一人いない。
誰も 純粋なタイプではあり得ない −−− 
それら 三つ全てが、あなたの中に あるからだ。


もし それら三つのタイプの バランスがとれていれば、あなたは調和している。

もし それら三つのタイプが アンバランスだと、支離滅裂になり、狂ってしまう。

 

難しいのは、自分が どのタイプかを 見極める時だ。

自分の中で どのタイプが 一番優位であるか、ということで決めること −−− 
それが あなたのタイプだ。

では、自分の中で 優位なタイプを、どう判定したらいいのだろう?


自分が どのタイプに属するか、自分にとって より意義のあるタイプは どのタイプなのか、どれが主要なタイプなのかを、どうやって知ったらいいだろう?

それら三つのタイプが、全て あなたの中に存在する。
が、一つは 二次的なものだ。

覚えておくべき 二つの基準がある。

 

 

 

(01)終わり(02)に 続く