saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第11章 : 光、生命、そして愛 (26)

( 光にまで 降りていくか、花にまで 上っていくかしなさい )

それには 二つの道がある。

一つは 知の道だ。

「知る」ことは、光にまで 降りていくことだ。

ジニヤーナヨーガで言われる 真の秘密とは 

その「光まで降りていく」ということだ。

 

その次には、「バクティヨーガ、 信愛の道」がある。

それは、愛にまで上がっていく という意味だ。

ブッダは 降りていった。

ミーラは 上っていった。

マハヴィーラは 降りていった。

チャイタニアは 上がっていった。

彼らは 実に矛盾したことを 言っている。

それは 当然だ。

ひとつは 根っこ、根源にいくことを語り、もうひとつは 花について、最終地点、頂点、ピークについて 語っている。

 

ある意味で、ブッダ、マハヴィーラ、パタンジャリ −−− 彼らの言葉は ドライだ。

彼らは、根源へと 帰る道を説いているのだから当然だ。

そこに 詩はない。

詩など あり得るわけがない。

彼らは 花に向かって進んでいるのではないからだ。

彼らは 科学的なやり方で 話す。

パタンジャリは ひとりの科学者として −−− 法則について話す。

ブッダは常に「これをしなさい、そうすれば こういうことが起こるだろう。

これをしなさい。そうすれば、こういう結果が生まれるだろう。 これが原因で、 これが結果だ」というように 説いていた。

彼らは 科学的に話す。

彼らは 数学の見地で話す −−− とても ドライだ。

彼らは 散文で話し、決して詩的に話さない。

彼らには できない。

どうやって 物理学者が 詩的に話せる ? 

 

彼は 根源を 深く掘り下げている。

彼は 花には まったく関心がない。

彼は 根っこを 深く掘り下げている。

その彼が どうやって、詩的に話せるかね ? 

 

チャイタニア、ミーラ、彼、彼女たちは 異なる言葉を話す。

彼らは 踊る。彼らは 歌う。

彼らは 開花へと 上がっていくからだ。

 

 

(26)終わり…(27)へ 続く