05
(…イエスと言うことが この子の天性で
ノウと言うことが あの子の天性なのだ。
どちらも 必要なのだ ーー )
もし 誰も ノウを言う人が いなかったら
〈生〉は なんとも平坦で つまらないものになる。
もし誰も彼もが イエスを言う人だったら
〈生〉は完全に 冴えない愚かしいものになる。
否定者も 必要、これは正反対の極だ。
もし 誰も反逆する人がいなかったら
従順ということは 無意味になる。
選択しないで、 ただ そのちがいを感じて助けなさい。
子供たちに あなた自身を 押しつけないこと
そんな暴力は いけない。
しかし どんな父親も暴力的だ ーー
どんな 母親も 暴力的だ !
あなたがたは暴力的になることができる。
なぜなら あなたがたは 愛の名において暴力的だからだ。
誰も あなたのことを批判しようとはしない。
あなたは、 子供を愛しているからこそ 打(ぶ)たなければ ならないのだ と 言う。
強く愛しているからこそ、この子を ま ち が い の ないようにしなけりゃならないんです。
愛しているからこそ、ちゃんと おしえなけりゃならないんです。
この子は まちがっているんですから ーー
何が まちがいで 何が正しいのか
いったい あなたには 確信があるのかね ?
確信の ある人など 誰もいない。
確信のある人など ありえない !
というのも、この現象は
この瞬間 善であっても 次の瞬間には悪と なるような
そんな事柄だからだ。
はじめ 悪い方向に 向かっていても
終わりには 善い方に転じてくる。
〈生〉は 流転
一瞬ごとに 変わっていく ーー
ゆえに 真の父親、真の 母親なら
自分の子供たちに 目覚めることだけを おしえ
道徳は おしえない。
道徳というのは 死んでいる。
あなたがたは言う
これは善いことだ、これに従いなさい !
しかし次の瞬間、それは悪くなる……
となると 子供は いったいどうしたらいい
?
次の瞬間には 生全体が変わってしまうのだ。
〈生〉は 変わる
それは 変化の連続だ。
ところが あなたがたの道徳は 固定している。
あなたがたは これは善だ と 言って
それに 従わなければならない。
そうなったら あなたは 死んでいるも同然。
〈生〉は 変わりつづけ
あなたはあなたで その固定した道徳を つづけていく。
だからこそ宗教人というのは 鈍重に見えるのだ。
彼らの眼は 空虚で表面的、深みはまったく ない。
なぜなら 深みが 可能になるのは
あなたが〈生〉の河と ともに流れるときだけだから。
では 父親、あるいは 母親は
子供に 何を贈りものとして 差し出したらいいのだろう ?
目覚め、 自覚心だけだ。
親は子供を より目覚めるようにさせる……
そして子供の自由を認めて こう言ってきかせる。
心して、“ 自由 ” をもって進むがいい と。
たとえまちがいを冒さなければならなくても
怖れてはいけないよ
生きることは あやまちを通じても また学べる
あやまちを通じて 人は また心するようになる。
だから 怖れることはない。
あやまちを冒す というのは人間的なことだと ーー
そして
もしあなたが 心して あやまちを冒したら
あなたは それを体験することになる。
あなたは そのことに敏感に心するようになって
それは 消えていく。
それは あなたを より豊かにし
あなたは その後は 怖がらずに進んで行ける。
一つだけ 憶えていなさい。
どんなことを通過するのであっても
もっと意識している ということを。
もし イエスと 言うのなら、意識して言いなさい。
もし ノウと言うのなら、意識して言いなさい。
子供が ノウを言っても 傷ついてはならない。
だって、子供を矯正しようというあなたは何様だ ?
子供は あなたを通じて生まれた
あなたは たんなる通路だったにすぎない。
けっして独裁者には ならないこと !
愛はけっして独裁的に 命令しはしない。
もしあなたが 命令することをやめたら
そのときには この善いと 悪いは 消え去る。
そうなったら あなたは その両方を愛するようになる。
あなたの愛は 無条件に流れるだろう。
そして
〈神〉の愛は そのようにして 世界に流れている。
無条件に ーー
「05」おわり…「06」へ つづく
『マイ ウエイ』⚪流れ行く白雲の道
バグワン・シュリ・ラジニーシ
🔘質疑応答集
話者 バグワン・シュリ・ラジニーシ
翻訳 マ・アナンド・ナルタン
発行者 スワミ・アナンド・シャンタン
発行 RPJ
発売 株式会社 めるくまーる社