「06」
( …思考は 単純な線の上を動く……が
〈生〉は 常に 一つの極から対極へと
一つのものから その正反対ものへと ジャンプする。
〈生〉は 弁証法的なものだ )
創造する……と
〈生〉は 壊せ ! と言う。
誕生する……と
〈生〉は 死ね ! と言う。
獲得する……と
〈生〉は 失え ! と言う。
豊かになる……と
〈生〉は 貧しくなれ ! と言う。
頂点(ピーク)と なるがいい、自我(エゴ)のエヴェレストと なるがいい。
それから 深淵と なるのだ ーー 無我と なるのだ !
そうなったら あなたは 両 方 を 知ることになる。
幻想と 現実、マヤと ブラーマを……
毎日のように 起こっていることだが
或る人が サニヤスを受けに来る……すると、その人の 頭(マインド)が はたらきだして こんなことを言う。
オレンジ色を着ることは 私をもっとエゴイストにします。
自分は ちょっとちがっている、ちょっと特別だと感じてしまうだろうからです。
自分は サニヤシンだ、世俗を放棄した人間、だからオレンジ色を着るのだ……、こう考えることは 私をますますエゴイスティックにするでしょう。
そこで 私は言う。
そうなるがいい、エゴイスティックに なりなさい !
しかし 意識しながらだ ーー
もし 無意識のままだったら
もしあなたが それを 無意識の層の中に隠すとしたら
自我(エゴ)とは 一種の病弊だ。
が
もしあなたが それについて 意識的であったら
自我は 一つのゲームになる。
あなたは それを 楽しめる
あなたは それを 遊べる。
意識的であることだ、心して在るがいい。
そして このゲームで遊びなさい。
ゲームというのは 悪いことではない。
が、あなたが もし、それがゲームであることを忘れて 深刻になったとしたら、そのときには問題が 起こってくる。
だから 私は
サニヤスとは 深刻なものではない と 言っているのだ。
それは 一つのゲーム ーー もちろん宗教的なゲーム だがね。
それには 独自のルールが ある。
どんなゲームにもルールがあるのと 同じだ。
ルールなしでは どんなゲームも遊べはしない。
〈生〉は ルールなしで 在りうるが
ゲームは ルールなしではありえない。
もし誰かが
私は このルールに従うつもりはない と 言い出したら
そのゲームは もうできなくなる。
あなたがたは トランプをやるね
そして そのルールに のっとってやるはずだ。
このルールは 任意なもの、人工的な ものだ
なぜ 変えてはいけない ? などとは けっして言わない。
ルールを変えて いけないことはないが
変えたら そのゲームはむずかしくなる。
もし あらゆる人が それぞれ自分のルールに従ったら、そのときには そのゲームをすることは 不可能だ。
〈生〉は 可能だ !
〈生〉においては あなたは 好きなようにやればいい。
〈生〉は 絶対に ルールなど信じない。
それは ルールを超えている。
しかし ゲームにルールは つきもの。
憶えておきなさい。
ルールが見えたら それは ゲームだと すぐさま知るがいい。
ふむ?
これが 判断の基準だよ。
ルールが見えるところでは、すぐにも それはゲームだ と 知るがいい。
なぜならゲームは ルールを通して存在するものだからだ。
だから もし私が
オレンジ色を着て マラ(ロケット)を かけなさい、と 言ったら、これは 明らかに 一つのゲームだね。
できるかぎり 上手に遊ぶことだ。
そして、それに関して 深刻にならないこと。
さもなければ 肝心な点を 見落とすことになる。
エゴイストに なりなさい。
完璧で 修養をつんだ、洗練された エゴイストに ーー
自分の 自我(エゴ)に はたらきかけつづけるがいい。
そして それを 美しい 銅 像 に してしまうがいい。
ん?
なぜなら、神に返す前に、あなたがたは それを返すに価するものに しなければならないからだ。
贈りものにしなければ ならないからだ ーー
「落ちるのは熟れた果実だけ……」06
おわり… 無限の海の一つの波……(01)へ つづく、
『マイ ウエイ』⚪流れ行く白雲の道
バグワン・シュリ・ラジニーシ
🔘質疑応答集
話者 バグワン・シュリ・ラジニーシ
翻訳 マ・アナンド・ナルタン
発行者 スワミ・アナンド・シャンタン
発行 RPJ
発売 株式会社 めるくまーる社