saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

「落ちるのは熟れた果実だけ……」05

「05」

( … 同じことが あらゆる誤謬に関して起こる。

自我(エゴ)というのは 最大の 夢だ )

それにはそれの 美しさがあり、苦悶がある。

それにはそれの 陶酔(エクスタシー)があり、苦悶がある。

それにはそれの 天国と地獄がある……

両方とも そこに在る。

  夢は ときには美しく、ときには 悪夢となる。

だが 両方とも夢なのだ ーー 

だから私は、あなたがたに

その時が来ないのに 夢から出てこい とは言わないよ。

いや、その時が来る以前には けっして 何もしないがいい。

ものごとを 成長させなさい。

ものごとが自身の その時を持つのを ゆるしなさい。

すべてが 自然に起こっていくように……

  自我(エゴ)は たしかに落ちる。

それはまた 自発的に落ちうるものだ。

もしあなたが それが成長することを ゆるしさえしたら

それが成長するのを 助けさえしたら

そのときには それを  落  と  す  必要は まったくない。

 

  このことには きわめて深い奥行きがある。

なぜなら、もし  あ  な  た  が  落とすとしたら

自我(エゴ)は 内側にとどまって残るからだ。

いったい 誰が それを落とすのかね ?  

もし 自分が落とすのだ と 考えているとしたら

その 自分 が エゴなのだよ !  

あなたが落とすものが 何であれ それは本物ではない。

本物は 保存されることになり

あなたは まったく別物を 投げ出したのだ。

あなたは  自  分  で  自  分  を   無  我  に  す  る  ことはできない。

誰が そうするのかね ?

それは 起こることだ、為すことではない !  

あなたがたは 自我(エゴ)の中で 成長していく……と

全体が あまりにも地獄沙汰で あるがゆえに

夢は 破れるよりほかないような 地点が やってくる。

突然、あなたは ガチョウが外に出ているのを 見る !  

それは 壺の中に入ったことは なかったのだ !  

 

  あなたは 自我(エゴ)であったことなど なかったのだ ーー 

それは あなたを 取り巻いていた夢だった。

その夢は 必要だった、と 私は言いたい。

私は それを 咎めはしない。

成長のために必要な 一部なのだから……

 

 〈生〉 にあっては、あらゆるものが 必要なものだ。

不必要なものなど 何ひとつないし、不必要なものなど ありえない。

どんなことが 起こるにせよ

それは 起こるべくして起こったこと

今 何が起こっているにせよ

それは 或る深い原因から 起こっている。

  あなたがたには それが 必要なのだ、誤謬の中に ずっと とどまっていられるように……

それは、あなたがたを助ける  ま  ゆ  にすぎない。

あなたがたを保護し、生き延びるのを 助ける  ま  ゆ  ……

  しかし

永遠に  ま  ゆ  の中に 入っている必要は ない。

用意ができたら、 ま  ゆ  を 破って出てくることだ !  

  自我(エゴ)とは 卵の殻(から)、それは あなたを保護する。

だが あなたに 用意できたときには

殻を破って 卵の中から出てきなさい。

自我(エゴ)とは その殻のこと ーー 

  が

待つことだ。

急いでも 大して役には立たない。

性急さは 助けにならない。

かえって 邪魔になるかもしれない。

時間を かけなさい。

そして それを 咎めないことだ。

なぜなら いったい誰が 咎めることになるね ?  

 

  いわゆる 聖人名士のところへ 行ってみるがいい。

彼らは 謙虚さについて へりくだりについて 語る。

が、彼らの 眼の中を 見てごらん。

これほど洗練された自我(エゴ)は ほかには見られないことが わかるだろう。

今や彼らの自我(エゴ)は、宗教やら ヨーガ、高徳な境地やらの ガウンをまとっている……

が、自我(エゴ)は そこにある。

彼らは 富を かき集めてはいないかもしれない

しかし自分の信奉者を かき集めている ーー 

通貨が 変わっただけだ。

彼らは 信奉者が何人いるかを かぞえつづける。

彼らは この世間の俗事を追いかけは しないかもしれない

が、別の世界のものごとを 追いかける。

だが この世間であろうが、両方とも 世界であることに 変わりない。

それに

彼らは人並以上に 貪欲であるかもしれないのだ。

なぜなら 彼らは こう言うではないか。

これら一時的なもの、瞬間的なもの

この世は 瞬間的な快楽で できていると……

そして彼らといえば 無限の快楽を求めているのだ。

彼らの 貪欲さは この上ない。

彼らは 一時的な快楽では 満足できない。

彼らの 欲しているのは 永遠の快楽だ。

永遠なものでないかぎり 彼らは満足しない。

その貪欲さは 根が深い

その貪欲さは 徹底している。

貪欲とは 自我(エゴ)に属するもの

自我(エゴ)の空腹感が 貪欲だ ーー 

だから 時には

聖人のほうが 罪人よりも ずっとエゴイスティックだということが起こる。

そのときには 賢人たちは神性から ほど遠いところに在る。

そして、ときには

罪人のほうが 聖人と呼ばれる人たちよりも ずっと楽々と〈神〉に達することができる。

なぜなら 自我(エゴ)が 障害になっているからだ。

  私自身 経験したことだが

罪人たちは 聖人たちより ずっと簡単に 自我(エゴ)を 落とすことができる。

というのも 罪人は けっして自我に反対しないからだ。

彼らは それに 餌をやってきた

彼らは それを 楽しんできた

彼らは それを十全に 生きてきた。

  ところが聖人たちは 常に自我(エゴ)と 闘ってきて

それが 熟すのを けっしてゆるそうとしなかった !  

 

  したがって 私の姿勢は これだ ーー 

自我(エゴ)は もちろん落とさなければならない……が

それには長い時間が かかるかもしれない。

そして それを落とすことができるのは

あなたが それを育成したときだけだ。

これこそ、この現象全体の中で 骨の折れることなのだ。 

なぜなら 頭(マインド)が こんなことを言うからだ。

落とさなければならないものなら なぜ 養う ?  

落とさなければならないものなら なぜ創る ?  

 

もし 頭の言うことに 耳を傾けたら

あなたは 面倒にまきこまれる。

頭は 常に 論理的だが

〈生〉は常に 非論理的だ。

この二つは けっして出会うことがない ーー 

これは 単純な論理だね、ふつうの算数だ。

いずれ 壊すことになる家なら なぜ建てる  ?  

どうして そんな面倒なことを する ?  

なぜ そんなに努力して 時間とエネルギーを 浪費する ?  

家は まだそこには ない !  

それなのに なぜ建てて またそれから壊すのだ ?  

  が

家自体は 実は 要点ではない。

肝心なのは  あ  な  た  なのだ ーー 

家を建てることで  あ  な  た  は変わる。

そして その家を壊すことで

 あ  な  た  は 完全に変わることだろう。

あなたは もう 同じではありえない。

家の建設、その全体のプロセス……

それが あなたにとって 成長であることが判明するだろう。

そうなったら、その家が完成したときには あなたは それを打ち壊す。

  それは 一つの変革となる !  

 

  人間の思考(マインド)は 論理的だが、〈生〉は 弁証法的だ。

思考は 単純な線の上を動く……が

〈生〉は 常に 一つの極から対極へと

一つのものから その正反対ものへと ジャンプする。

〈生〉は 弁証法的なものだ。

 

 

「05」おわり「06」へ つづく

 

 

 

『マイ ウエイ』⚪流れ行く白雲の道

バグワン・シュリ・ラジニーシ

🔘質疑応答集

話者   バグワン・シュリ・ラジニーシ

翻訳   マ・アナンド・ナルタン

発行者   スワミ・アナンド・シャンタン

発行   RPJ

発売   株式会社 めるくまーる社