03
十二年経って 仏陀は帰ってきた。
今や もう問題は いっさいなかった。
今や、ヤショダラの内に〈神〉がいた。
以前は、ヤショダラは大きすぎる存在だった。
その中に〈神〉を見るのは むつかしいことだった。
が、今では、〈神〉が 全面的にそこに在った。
ヤショダラが 入りこむ空間は 残されていなかった……
女性には これと正反対のことが、起こる。
女性は、その 存在全体が 相手に向かう衝動にかられているために、瞑想することができない。
彼女は 独りにはなれない。
独りでいると かならず みじめになる。
だから
独りであることこそ 至上の歓喜
独りであることこそ エクスタシー
などと言っても 女性には 理解できない。
ところが
この、 独 り で 在 る ということへの強調とは 世界中 到るところでなされてきた。
というのも 男性の探求者が 多すぎるからだ。
彼らは すべて 孤独の中に入っていった。
そして その孤独の内でのみ 彼らは到達できたのだ。
彼らがその 独り という 雰囲気をつくりだしていった。
女性は独りになると かならず苦しむ。
もし 愛する人がいたら
たとえ 頭(マインド)の中だけの ことであっても彼女は幸福だ。
もし誰かが愛し、誰かを愛せたら……
まわりに 愛があると、それは彼女を 養う。
愛は 滋養分、それは 微妙な食物だ。
愛が まわりに無いと感じるときには
女性は 飢え死にしそうな、息が詰まりそうな 感じになる。
その存在全体が 縮んでしまう。
だから女性は、孤独が歓びに満ちている などとは、まったく考えることなど できない。
この 女性エネルギーが、愛と献身の道を 生んだ。
たとえそれが 神という愛人であっても かまわない。
生身の恋人を 見つける必要は全然ない。
ミーラにとっては クリシュナで充分だった。
問題は まったくなかった。
ミーラにとっての 相 手 は 充分 存在した。
実際に そこにいるわけではない
クリシュナは 一神話に すぎないかもしれない
しかしミーラにとっては 彼は い る !
相手は 存在している !
そのときにはミーラは幸福だ。
彼女は 踊り、唄うことができる
そして それで養われるのだ ーー
その考え自体、その 思い自体……
相手が存在してそこに愛がある という その感覚自体
それだけで 女性は充足感を いだく。
彼女は幸せだ、活き活きと してくる。
女性は この 愛を通してのみ
愛する者と愛される者が 一体(ひとつ)となる時点にまで行ける。
そのときに はじめて瞑想が 起こる。
女性エネルギーに とっては
愛の もっとも深い合一の内に おいてのみ 瞑想が起こる。
そうなったら 彼女は 独 り に なれる
そうなったら 問題はなくなる。
なぜなら もう二度と独りにはなりえないからだ。
愛する相手と 溶けて一つになったのだ !
相手は 今や 己の内側にいる。
ミーラ、 ラーダ、 あるいは テレサ……
彼女たちはすべて 愛する人を通して成就している。
クリシュナや イエスを通して ーー
これは 私の 感じていることだが
男性の求道者が 私のところへ 来るときには
彼は きまって 瞑想に関心を示す。
そして女性の求道者が 来るときには
彼女はきまって 愛に関心を寄せる。
もし私が、瞑想を通じて愛が起こる と 言えば
女性もまた 瞑想に 興味をもつようになる。
が、彼女の奥深い欲求は 愛なのだ。
女性にとっては、愛が〈神〉なのだ ーー
この ちがいは 理解しておかなければならない
しっかり 深く 理解してほしい。
なぜなら すべてが このことにかかっているのだから ーー
グルジェフは たしかに 正しいのだ !
「03」おわり…「04」へ つづく
『マイ ウエイ』⚪流れ行く白雲の道
バグワン・シュリ・ラジニーシ
🔘質疑応答集
話者 バグワン・シュリ・ラジニーシ
翻訳 マ・アナンド・ナルタン
発行者 スワミ・アナンド・シャンタン
発行 RPJ
発売 株式会社 めるくまーる社