saleemのブログ

「 先ず一歩 内なる旅に 友は無し 」Zen柳

第四章「第二の質問」01

……「第二の質問」01

 

マントラ・ディクシャ、つまりマントライニシエーションの意味、 準備、 および手順についてご説明ください。 また、なぜ各個人はマントラを秘密にする必要があるのでしょうか』。

 

 

  まず最初に 理解すべきことは、イニシエーション(入門、 伝授)とは なにか、ディクシャとは なにかだ。

それは 深い交感(コミュニオン)、師から弟子への 深いエネルギーの伝授だ。

 

  エネルギーは つねに下へと 流れる。

師、 つまり到達した者、知った者、成った者は、最高点に達したエネルギー、もっとも純粋なエネルギー、エネルギーのエヴェレストだ。

このエネルギーは 誰にでも流れ下る ーー その人間が 受容的で、謙虚で、明け渡していればだ。

この明け渡した 態度、受容的な態度、深い謙虚さ が、受け取るためには 必要だ。

 

  さもないと、自分自身が 頂点となり、谷ではなくなって しまう。

エネルギーは 流れ下ってこない。

それも ひとつの頂点だが、種類が 違う。

 

それは エゴの頂点であって、エネルギーの、存在の、至福の、意識の頂点ではない。

それは濃厚なエゴ、「私−性」だ。

それは ひとつの頂点であり、そのような頂点にいたら入門は 不可能だ。

エゴは 障害だ。

エゴによって 人は閉じ、明け渡しは不可能になる。

 

  弟子となるため、入門(イニシエート)のためには、自分自身を全面的に 明け渡す必要がある。

部分的な明け渡し というものは存在しない。

明け渡しとは 全面性を意味する。

「私は部分的に明け渡す」と 言うことは できない。

それは 無意味だ ーー まだ エゴがある。

必要なのは エゴを明け渡すことだ。

エゴを 明け渡せば、受容的になり、オープンになる……谷のようになる。

そうすれば 頂上は 流れ下ってくる。

私は 象徴的に語っているのではない。

実際に そうなのだ。

 

  あなたは 人を愛したことが あるだろうか。

愛したときには きっと感じるだろうが、愛は ふたつの身体の間を 実際に流れる。

それは 実際の流れだ。

エネルギーが 伝わり、授受される。

しかし 愛は 同じレベル上で 起こる。

両方が エゴの頂上にとどまったままでも 愛は可能だ。

 

 

  しかし師は あなたと同じレベル上には いない。

もしあなたが 同じレベル上に いようとすれば、イニシエーションは 不可能だ。

愛は 可能だが、イニシエーションは 不可能だ。

イニシエーションが可能なのは、自分が 低いレベルに いるときだけだ……謙虚で、明け渡しており、オープンで、受容的であるときだけだ。

弟子は 女性的だ。

ちょうど 子宮のように、受動的で受容的だ。

イニシエーションでは、師は 男性的な要素だ。

 

  このイニシエーションの秘密は、もう完全に 失われている。

なぜなら、高等な教育を受け、開化し、文明化すればするほど、私たちのエゴは 強くなるからだ。

もはや 明け渡しは まったく不可能になった。

昔から 難しかったが、今では もう不可能に なった。

 

  イニシエーションとは、内的エネルギーの授受、実際のエネルギーの 授受だ。

あなたに 準備が整い、受容的に なれば、師は あなたの中に入り、あなたを変容する。

だが そのときには深い信頼が 必要だ。

愛にも 信頼は必要だが、それより もっと深い信頼が必要だ。

なぜなら、なにが起こるか わからないからだ。

あなたは まったく闇の中だ。

 

  師だけが 知っている。

これから なにが起こるのか、そして自分が なにをするのか、師は 知っている。

でも あなたには わからない。

また、ものによっては、なにが起こるか語れないものがある。

なぜなら 人間の心には いろんな問題が存在するからだ。

ひとつの問題は こうだ ーー もし出来事の起こる前に そのことを語ってしまうと、それによって 出来事は変わってしまう。

だから 語ることができない。

 

  だから 師には語れないことが たくさんある。

 

02へ つづく……

 

 

タントラ秘法の書   第四巻

「沈黙の音」

ヴィギャン・バイラヴ・タントラ

 


講話   OSHO

翻訳   スワミ・アドヴァイト・パルヴァ

            (田中ぱるば)

発行者   マ・ギャン・パトラ

発行   株式会社 市民出版社